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今日は、久し振りに美術ネタです。というのも、先日、「ほぼ日刊イトイ新聞」で、糸井重里と奈良美智の対談があり、そこで奈良さんが語った「絵を描く姿勢の一貫性」がとても面白かったのを受けて、自分はどうだったかな・・・と、過去の自分の制作姿勢の様なものを思い返したことに因ります。



奈良さんの絵は、正直特に好きではありませんが、ただ如何にも人柄が良さそうなので、一度彼の話は聞いてみたいと思っていました。それから、数年前銀座石川画廊での個展の際、スタッフに見せてもらった美術オークションのカタログにあった数十年前の彼の作品(コラージュ)を見たとき、この人は力のある人だな~と感じたことを未だに覚えているので、どこか引っかかるものがあったのでしょう。



当時の彼の作品は、60年代のアメリカのアッサンブラージュ的な、謂わば彼のオリジナリティーは全く感じられないものでしたが、でもその力量は一目見れば分かるものでした。売れてる人って、ただ売れているわけではなくて、元々実力があって、いろいろ紆余曲折して表現に巾をつけ今があるんだな~・・・・そんな風に思ったことを覚えています。

(お隣)
超売れっ子の奈良さんを引き合いに出して自分を語るのは、何だか気が引けるですが、ここは作り手という括りの中では有名無名は無礼講ということで許して頂いて。

僕は鎌倉彫の世界に入った時も、そして今も全く変わらず、うるし作品であれ何であれ、新しい作品のアイデアを考えている時が、一番心地いい至福の時です。



勿論、制作にあたっているときも充実してるのですが、やはり「今までこの世になかったものを目の前にするための準備」することは、今まで知らなかった自分と向き合うための準備にも似て、何て言ったらいいんでしょうか・・・・違った自分に会える期待で静かに胸躍るといった感じでしょうか。

(クロッキー帳・・・・1976年)
ちょっと見上げて、仕事場の棚に目をやると、昔いろいろなアイデアや作品のヒントなどを書き付けたクロッキー帳がありました。中を開くと↑↑職場の先輩の影響を受け、どうしたら「今」の鎌倉彫を提案できるか・・・・必死だったようです。



恐らく例外なく、日本の伝統工芸の産地で働くものは、どうやって伝統工芸を今に繋げるかが、大きなテーマになっているはずです。僕の居た鎌倉彫の世界も、全ての工房ではなかったですが、やはりこの課題が、伝統工芸延命策として近々の課題でした。僕が入門した「博古堂」は、老舗ということもあり、業界内では恵まれた環境でした。



殆どの伝統工芸の地場産地がそうであるように、三十五年前の鎌倉彫の世界でも、所謂日本伝統工芸展派と日展派に別れて、当時「新しい」と思われていた古い?西洋の近代美術を競って模倣していました。僕の職場では、日展系の現代工芸派の先輩が幅を利かせていたので、僕もその影響を強く受けました。その基本的スタンスはというと、西洋のキュウビズムが基本だったように思います。

(クロッキー帳・・・・1976年)
鎌倉彫と呼ばれている世界は、元は仏師でしたが、維新の際、廃仏毀釈のお触れが出たため失職し、仕方なくその技術を盆皿の工芸へと転用し延命をはかったわけです。木彫という範疇に限定して言えば、近代美術の中で一番近いところにいたと思えるのが、ブラックやザッキンに代表されるキュウビズムでしたから、その辺の美術を徹底して見ました。

(オシップ・ザッキン作)







(オシップ・ザッキン作)








(ジョルジュ ブラック作)
簡単にいえば鎌倉彫は、凸凹の世界ですし、また三次元ではなく半立体の平面に彫刻をした所謂浮き彫りですから、まさしくキュウビズムの世界は、西洋化への道標でもあった訳です。なので、今でもザッキンは、好きな作家です。ちなみにザッキンは、二科会の名誉会員でもありました。そして、こんな逸話があります。僕が今でも使い続けている彫刻刀や鑿は上野の「宗意刃物」製ですが、その鑿だったか光雲製の鑿だったか忘れましたが、二科会の会員が、ザッキンに切れ味の良い日本の刃物を贈ろうとしたら、彼は「そんな切れ味の良い刃物は、僕には必要ない」と言って断ったそうです。まっ、技術じゃなく心(魂)が大事ということでしょうか。

(クロッキー帳・・・・1976年)









(1976年当時の作品)








(プロポーズしたときに贈ったペンダント)
当時、リスペクトしていた先輩が、負の空間に拘っていて、僕もその影響から正と負の混在した壁面作品に強く興味を持ち始めました。↑↑上の画像は、当時のスケッチや作品です。もちろん、ザッキンやアーキペンコ、そしてヘンリー・ムーアたちのマイナス空間の演出にとても惹かれていました。



結局、その先輩より、あとからキュービズムを追いかけた僕の方が、面白い作品を作っていたように思います(当時は、もの凄く才能のある先輩だと思っていましたが、今振り返ると、それほどでもなかったのかも知れません)。 



雲の上にいるように先輩たちを見上げていたんですが・・・・。その後、五六人いた先輩たちで、今でも作品を作り続けているのは、僕を除いて居ませんから人生というものは分からないものです。




でも、この前亡くなった叔父は、勝ち誇ったように入選した作品の写真(どこかになくしてしまった)を見せたら、”フォルムが美しくない”って言ってました。当たってます;;
 
   
 これは、凹の中に凸があるデザインですが、凹のフォルムが美しくなく、今ならもう少し美しくできるので、奈良さんが言ったみたいに直してみたくなりました。今ならもう少し完成度高くできると思います。



所謂現代美術が、未だ輝いていた頃(’80年代ちょっと前)、そのコンセプトは、僕の理解では、『科学的表現』ということになります。つまり、美の基準が、今見えている”もの”、や”こと”を、その外側で見えていることそのものを検証する別の視座を持っている姿勢・・・・ちょっとややこしい言い方になってしまいましたが、僕らが作品に限らず、何かを見ている場合、それが見えていること、そのこと自体を常に疑って掛かる姿勢と言い換えてもいいと思います。




上の作品で言えば、凹として見えていたものが、視線を移動してゆくと、ある時点(地点)から凸に換わってしまうことのなかで、僕らが凹の空間と凸の空間をどういった約束事で見ているのか、あるいは、見えているのか、その見え方自体を美術的に表現することが、この作品のコンセプトだと思います。



凹だと認識して見ている視線を、少し動かしただけで、いつの間にか凸に換わっていることの不思議・・・・・一体僕らにとって凸と凹の空間認識は、何を意味しているのか。その認識のシステムそのものが何なのかを作品にすること・・・・それが、当時の表現のコンセプトだったと思います。
 
 
実は、この姿勢は今でも変わらずに持ち続けている姿勢です。例えば、上の椿梅重ですが、凸凹として彫刻れた椿の花と葉ですが、同じ平面に、”絵柄”として描いた椿に花や葉を、あえて同居させています。意識しないと気付きませんが、そこを気付かせないのがミソです。
 凸凹の浮き彫りとして彫られた花や葉も、そして、平面的に「絵柄」として描かれた花や葉も、同じ椿の花、そして葉として認識される、その反転を潜ませる表現姿勢に
嘗ての科学的表現の片鱗が見えます。ただ、全体としてみたときに、バランスのとれた椿梅柄として見られなければ意味がないので、その様な姿勢は、ずっと奥に引き下げて、あまり表に出て出しゃばらないように工夫しています。
 








 
 
 上の画像も、椿の実?の彫り方を凸と凹と混在させ、物理的に次元を増やしています。この辺が、気付かれないようにしている工夫です。この椀を求める方は、迷わず、凹や凸だけの作品より、凹凸を混在させた方を自然と選んで下さいます。みなさん、凹とか凸とか認識する前に、「面白い」と思って求めて下さっていると言うのが実情です(こちらも、その方が、何となく嬉しい気がします)



下の画像も、凸と凹の混在が、単なる柄のフォルムだけでない要素を加えることで、絵画のようなタブロー(平面作品)では表現できない効果を演出してくれています。











 
 
 以前は、鎌倉彫のような、あまり可能性のないダサイ?世界に入ったことを失敗したかな・・・と考えた時期もありました。でも、今は、他の漆藝にはない、次元の違った表現が可能な、その意味で特異な世界に入って良かったと思っています。そして、今は未だ未だ面白い作品を作り出せそうな気がしています。



・・・・と言うわけで、久し振りの美術談でした。未だ話し足りない気もしますが、また別の機会に違ったお話もしたいと思います。


そして、最後に、今回紹介したクロッキー帳の後ろの方に、当時、勝手に僕の住まい(北鎌倉にあった当時としても珍しかった農家の納屋)に入って残した、僕の結婚と神奈川県美術展での準グランプリ受賞を祝した悪友のコメントを見つけました。三十数年振りの発見です。ホント面白い奴でしたが、一緒に立ち上げた株式会社を僕が退社して独立して間もなく、突然蒸発してしまい行方知らずです。この悪友の話は、無茶面白いのですが、別の機会に譲ります。



これからも、なるべく美術の話も沢山したいと思いますので、飽きずにurushi-art.net ご贔屓に。


では、では。
  
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