9月21日                   深まる秋

つい先だってまでゾンビの様にまとわりつく、あまり嬉しくない夏があった。

でも、今日(9/20)の久しぶりの雨が「これで秋らしくなるのかな・・・・」と思わせる。

若い頃は、何が何でも晴れている事の方が無条件に嬉しかった。「雨が好い」などと痩せても枯れても思ったことはなかったはずだ・・・が、ここへ来て大分事情が変わってきた。

しとしと、そぼ降る雨など風情があって好いもんだなと感じる。

そう言えば、ゾンビのような今年の残暑の夕刻によく庭に水を蒔いた。勿論、植木が「乾いている」のが伝わってきたからだが、以前は、そんな植木の気持ちを感じる受容器は持ち合わせていなかった。矢っ張り農耕民族の血が流れているのかな〜と思う。今に演歌が一番!なんて言い出すんだろうか・・・・・。いくら何でもそりゃ〜ねーだろう。。かな?

まっその時はその時、そうなるまでJazz や Bossa Nova をしっかり聴いておこっ。

2・3日前に偶然ラジオから流れてきたジョアン・ジルベルトの絹のようにデリケートで艶のある歌声にハッとさせられ、久しぶりに35年以上前のLPを引っぱり出して聴いてみた。結構その歌詞が自分の口からも出てくるのに驚いた。実は、この Bossa Nova の大御所が来日しコンサートを開いてるという。ラジオから流れてきた声も来日コンサート会場で録音されたものだった。若干歳を感じたが、まるでブラジルの民謡のように安定している。加えてゆったりと落ち着いていて40年近く前のような実験的で挑戦的なニュアンスは全くない。まさに Bossa Nova はスタンダードになったのだろう。

秋と Bossa Nova は、センチメンタルとアンニュイと言う括りで案外矛盾無く重なる。

秋風に揺れる秋海棠

秋が加齢のメタファーになぞらえるのは、古来から変わらない。移りゆく季節に人生を重ね合わせようと僕らがしているのか、あるいは季節の方から僕らの生態リズムに共振を誘うのか・・・・・?

何れにしても僕の眼に今までピントが合わなかった秋が、ゆっくりとそのぶれを二眼レフカメラのファインダーのように修正してきているのが分かる。同時に運動会やら文化祭、そして行楽としての秋の色が褪せていく。

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮    (藤原定家)

遙か遠くにあったこの和歌がとても身近に、そして素直に自分の中へと染み入る。

己の心の内で、天高く澄んだ空の秋物憂い秋が拮抗している今日この頃です................................