25年ほど前、我が東逗子駅前にも、小さいながら書店があった。

よく80才近い爺さんが、銭湯の番台に鎮座するようにレジの前で店番をしていた。パートのオバサンが出ればいいな.........と、多少の不安を抑えて雑誌の予約をするため電話をしたところ、電話口に出たのが運悪く店主の爺さん。


「あの〜季刊誌なんですけれど。。。思想・哲学関係です。」「確かエピステーメって言ったと思います。予約出来ますか?」


「えーと、何でしたっけ?」

「エピステーメです。」

「エピテーメですね?」

「いや、エピテーメです。」

「ああ、エピステテーメですか。」

「いや、だからエピステーメです ;;;」

「あっ、そうですかエピスメーテですね。」

「いや、いや、いや、その〜エピスメーテ、っじゃなかった;;;.....
エ・ピ・ス・テ・ー・メ・です

「は、なるほどエピテ・テーメです....」


「............
の〜;;;となりで笑ってるオバサンに代わってもらえますか?」


こんなのどかな風景は、地域からまったく消えてしまった。以前は、駅前にもう一軒小さな書店があった。やがて町の書店は、すべてコミックに入れ替わり延命しようとしたけれども結局店じまい。
エピステーメとは、もちろん東逗子の本屋の爺さんが唱えた念仏ではなく、同じ呼び名の季刊誌『エピステーメ』のことでもなく、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの言葉です。

これを説明し始めると厄介なのでやめますが、砕けて言うと、人が考えることや、話す言葉は、話している個人が言葉を選んでいる様で実はまったくそうではなく、本当はその時代・時代のもつ基本的な枠組みによって選ばされている・・・・・という意味になります。

フーコーの思想は、20世紀を代表する重要な内容をもちますが、なにせ翻訳がほぼ直訳のようで極めて難解な印象を持ちます。そして、その考え方が余りにも深く鋭く常識を超えているので、余計に難解に感じてしまいます。

彼が70年代に発言した『権力』に関する考察は、今になってジンワリとその真意が具体的に見えてきています。

例えば、今回の社保庁や厚生労働省の問題があります。小泉政権で打ち出した『民営化』ですが、結局のところ権限(権力)は民間へは移譲せず、ますます役人の権限は強まり、加えて(これが最悪です)役人が責任を取らずに済む構造になっています。

介護制度にしても、報酬を下げることを決めるのは厚生省です。でも、下がった報酬内で、今までと変わらない内容の介護をしなければならないのは、民間の介護施設運営者です。現場の困難さや運営の困難さの責任は厚生省が取る訳では決してありません。そのくせ色々口を出し指導しようとします。事件は、現場で起こっているのに・・です。

『民営化』という言葉の響きは、何か役人の権限が弱くなるといった感じにとらえられていますが、現実は全く逆で、役人の権限は強まっているし、また、役人は責任を取らずに済む様になっています。

(ミシェル・フーコー Wikipedia より)
風前の灯火?状態の安倍政権ですが、官邸の権限は、各省庁同様、上意下達形式で権力の伝え方としては、旧態依然としています。

人が社会を構成し運営するには、権限(権力)を行使しなければならない場面が多々あります。今地球上で最も理にかなった権力の行使のし方は、フーコーの言うように、非人間的に(ヒューマニズムと無関係に)脱道徳的に人間社会を徹底的に多角的で多様な分析を済ませ、歩留まり計算により最も高い数値の人々が望ましいポジションがとれる、そして、反面そこから漏れる人々が低い数値ではあるが必ず出る、という事を自覚してふるう権力が一番理にかなった権力の行使ということになります。

そこでは、一方的な命令と恐怖で動くのではなく、本人の意思で(もちろん個人の意志ではなく組織や時代の意志になりますが)自由に選択し、決定する権力のあり方が成り立っています。


明日は、いよいよ組閣です。百年後に振り返って見たとき、恐らく「今」は、大きな転換期になっていることは間違いなさそうです。いろいろな意味で難しい時代ですが、少しずつでもいい方向に向いて行けるよう精進したいものです。 えっと。。。今日も暑かったです〜;;;;

(ガレージのカブト虫 pm 6:26)