10/30 続<消費>について
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<消費>の社会的意味

<消費社会>の成立は、文化的にも社会を大きく変容させました。

GDP(国内総生産)も低く、人々がまだ基本消費(食費・光熱費・家賃等)に支出の大半を割いていた時代は、今から考えれば商品の内容も素朴で、ある程度の機能や条件を満たしていれば充分でした。しかし、<消費社会>に入ると、人々は商品にそれ以外の要素を求めるようになります。

<消費社会>では、人々は商品の質の向上は勿論のこと、更にそのデザインやイメージを重要視するようになって行きます。

この様に、実質的な価値以外の要素が商品の価値を決めるのが、<消費社会>の文化的特徴になります。
1970年代に、この点に着目して<消費>の社会的意味を先鋭的に提示したのが、フランスの社会学者ボードリヤールです。

彼は、当時一世を風靡していたフランスの言語学者ソシュールの記号論を駆使し、当時のフランス社会の<消費>を記号論的に解釈し『消費社会―その神話と構造』他、多くの消費論を残しました。

ここでは、この著作内容を詳細に紹介する余裕がありませんので、興味のある方は、その論旨を上手く纏めてくださっている社会学者野村一夫のサイト(ソキウス:http://socius.jp)を紹介しますので、そちらを参考にして下さい。

(J・ボードリヤール)

(新宿区hpより)
彼はボードリヤールの消費概念の要点をつぎの三点に集約しています

 (1)消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。
 (2)消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。
 (3)消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。


この概念は、経済と離れて、現状を把握するうえでも、工芸のこれからを考える上でもとても重要です。

<消費社会>では、消費の内容が実質的な消費から記号的消費に変わったと言えます。
これを経済的視点で言えば、先回お話ししたように、僕らが生活する上で最低限必要な必需品にあてる支出より、余剰支出(教育費・娯楽・遊行費等)が増えたことを意味しますから、人々がより贅沢になったといえます。

この贅沢さの意味するものが<消費社会>を解くうえでとても大切になってきます。先ほど紹介した野村一夫氏は次のように例えています。

 たとえば、自動車そのものは科学技術によって変形加工された物質である。それが市場にでると、一定の貨幣と交換できる商品となる。それはすわったまま何十キロも高速で移動できる機能をもったモノである。

高速移動という機能は、自動車の「使用価値」である。たとえば、電卓は計算ができる機能をもっていて、それが電卓の「使用価値」である。冷蔵庫は食品を冷蔵して保存する機能をもっていて、それが冷蔵庫の「使用価値」である。

 でも、多くの人はだだ高速移動するだけで車を買うのではない。まだまだ走れる車でも、モデルチェンジがあったり、トレンドが変わったりすると、車検の切り替えを機にきわめて多くの人が車を中古にだして新車に乗り換える。

工芸の現在
はじめに
マニュファクチャーと付加価値
伝統工芸産地の今
新たな流通の確立へ
生活スタイルを決める経済
理想の生活スタイル
退潮著しい伝統工芸
<消費>について
続<消費>について

先日、天野祐吉がTVでCMについて話していましたが、氏の言う様に昭和のTVCMとその商品は僕らに夢と希望を与えてくれていました。

当時の三種の神器はというと......
テレビ・冷蔵庫・洗濯機でしたが、それらを手に入れることが、僕らの夢を手に入れることになっていました。
小学校当時の僕は、よく上の姉と家の中にある家電の数を数えたことを覚えています。僕らにとって、家にある家電の量がそのまま幸せの量だったので、蛍光灯を家電に入れるかどうかで結構もめたりもしました。のどかな時代でした。


2005年の今では、その消費スタイルはまるで変わってしまい、人々は<もの>を消費すると言うより<もの>の背景にある<こと=記号>にお金を使っているように思います。
記号の消費で最もシンボリックなものは所謂ブランド品でしょう。
 今、ルイ・ヴィトンの売り上げの内、約60%が日本人で占められるようで、他社も含め日本の市場へのブランド企業戦略は社運を決めるほどになっています。
人々はブランド品を手に入れることで、ワンランク上の生活スタイルや理想的な人生に近づくという社会的な約束事(コード=制度)を手に入れている様に感じます。
これは、ブランド品の物としての素晴らしさというより、そのブランドが持つイメージにお金を使う(消費する)と言った傾向が強いようにも見えます。
これを一概に悪いことだとは思いませんが、ちょっと前に手に入れたブランド品を質屋に入れて、それを元手にして新しく出た商品を購入するという光景をメディアで目にすると「やれやれ......」と思うときがあります(おじさんです、はい)。

<記号消費>の広がりは、新しい消費の形態で新しい現象ですから、どうしてもあまり好ましくない風景に見られがちです。しかし、<記号消費>を前提とした商品開発なしには現在の市場は成り立ちません。

また、これらの商品を提供する業種に多くの人々が就業しているわけですから、最早<記号消費>抜きでは社会は成り立たないようになっています。

今、TOYOTAのプリウスなどのハイブリッドカーが注目されています。今年のハリウッドのアカデミーショーでは、デカプリオを始めとする9人のスターが会場にプリウスを乗り付けたということですが、これなどは環境を配慮する象徴=記号としてハイブリッドカーが機能している好ましい事例ではないでしょうか。

ちょっと古い話で恐縮だが、たとえばオフホワイトのボディが主流になったり、BMWがヤンエグ風ステイタスを表したり、限定生産車が人気を博したり――最近はRVというところか――この場合、新車は明らかに本来の使用価値を超えた〈なにものか〉である。

 この超えている要素が、社会的な意味づけにほかならない。勲章や金メダルがなんの使用価値もないのに、人びとが必死に追い求め、また賞賛するのは、その物質にポジティブな社会的意味が付与されているからで、それと同じ構造である。

消費社会の大きな特徴は、それが特殊な商品だけでなく、あらゆる商品――このなかにはモノだけでなくサービスも入る――に、こうした社会的意味が備わっているということである。

 以上のような意味で、現代の消費は、たんにモノの使用価値を自分のものにすることにとどまらず、「記号消費」という性格の強いものになっている。


(TOYOTA PRIUS)

     (渋谷区hpより)
僕らの消費行動も、下手をすると自分自身が一つの<記号>にしか過ぎなくなる世の中ですので、物を買う上でもリテラシー(ものごとの背景に潜む複雑な構造を読み取る能力)の質を上げていかなければならないようです。

今の若い世代は、彼らのファッションなどを見てもポストモダン(高次資本主義社会)に生きる術として、自分のイメージが固定する前に、スルッ、スルッとすり抜けていくスキルを身に付けている様に見えます。
サービス業や情報産業が扱うものは、最早「もの」ではなく「こと=記号」ですから、そこで扱われる商品は直接手で触れることができる<もの>から<イメージ>の商品化へと、とても概念的な構造を持ちます。各企業がこぞってイメージ戦略のためCMを打つことの意味がここにあります。

以上のように、現在の消費の有り様は、眼に見えない、あるいは手で触れることが出来ない事柄に、人々はより多く支出するようになっています。
そこでは、嘗ての第一次・第二次産業の様に、<生産>→<消費>といった単純なベクトルから<生産>→<消費1>→<消費2>、そして<消費1>→<消費2>→<消費3>→・・・<消費>といった様な高次な市場になっているといえます。

吉本隆明が指摘している<消費というのは空間的に遠くなった、あるいは時間的に遅れたところの生産だ>という意味はこの事を指しているのだと思います。

こうなると、氏が言うように<生産>と言っても<消費>と言っても意味は同じになる社会に僕らは生活しているといえます。
複雑と言えば複雑で厄介ですが<消費社会>で自分を見失わずに生きていくということは、かなりストレスフルでおじさんには大変です;;;; この様な社会が登場したことを踏まえて、依然として家内制手工業の生産様式を続ける工芸のこれからを考えなければならないと言うことは、とても厳しい現実です。

(つづく)10/30