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コミック『ソラニン』を読んだ。



先月のの五金スペシャル(無料放送)で紹介されていた原作・浅野いにおによる日本の青年漫画作品『ソラニン』は、既に80万部を超えたという。宮崎あおい主演で映画化されたものは、現在上映されている。



映画より原作の方が素晴らしいということで早速 Amazon.com で取り寄せてみた。
ハイディガーの『存在と時間』を読むのと、コミックを読むスピードが同じくらい本を読むのが遅い僕でも一気に読み終えた。



感想は・・・・・絵が上手い。恐らく、今の若い世代の中心的課題である”人の心を読みたい”という心理を表情としてビジュアル化する術に秀でている。



内容は、というと・・・・絶賛する宮代真司が言うように「そこで泣くか!」というシチュエーションが随所にあって、僕らオジサン世代には、ある異和(吉本隆明さんの造語です)を感じる。それは、このところ話題になる邦画や小説、そして、コミックの象徴的思潮である「死にオチ」の典型でもある。

つまり、主人公に関係する身近な者の死が”オチ”として仕掛けられていて、物語はそこから始まるように設定されている。そこが僕らには異和なのだ。つまり、”死”というものが羽根のように軽い存在として取り扱われていることに違和感を持ってしまうのだ。違った言い方をすると、死が”お約束”として処理されているように映るのだ。
そして、その涙も、まるでスポーツの後に流す”汗”のようだ。カタルシス(浄化)としての”涙”が悪いということはない。でも。。



物語の語り手にとって、死は伝家の宝刀であるはず。まるで、街で歩道を歩いていたら、その段差に蹴つまづいてこけるように死んでしまうのだ・・・・ここでかよと。 そこに今のリアリズムを視るのかも知れないが。



いま、何故「死にオチ」なんだろうか。

今の社会が、”生”を中心に据えて回っているため、日常から”死”を排除し隠蔽していることから、僕らが死をタブーであるかのように振る舞っている、そのことを突くことに必要以上の意味が出てしまうのだろうか・・・・・。
 
とは言うものの、主人公やその周辺の者が死ぬ物語は、世の中には当たり前に存在している。ただ、その死なせ方に僕は異和を感じてしまう。そして、何故”異和”が生まれるのか、その中身を探ってみたくなる。多分、そうなる必然性がそこにはあるはずだからだ。



宮台の指摘にあるように、今の若い世代は、”濃~い”人間関係の成立を端から全く信じていない。初めっから、人から裏切られた後の心の準備というか、傷つくことへの予防と言うか、理想的な人間の関係の成立を想定していないように見える。



結局、何だかんだ言っても僕らの日本社会は、ずっと右肩上がりで来た(バブルが弾けるまで)。それも、猛烈に働いてそんな社会を支えてきた訳だが、そして気付いてみると新興国と先進国を併せた中でもダントツ「幸せ度」が低い(低く感じてしまう)社会になってしまった。近代化の中で明治以前から培ってきたリソースを、先の戦争を挟んでバブルに至る過程で全て消費してしまったかのようだ。
そして、僕らの国は、昨年も三万二千人以上の自殺者を出してしまった。イラク戦争で巻き込まれた市民の死者が、この十年で15万人を超し、アメリカサイドの兵士の死者(有志連合軍の死者)が4,000人を超えたとその悲惨さを報道は伝えているが、我が国のこの十年は、毎年ずっと30,000人を超す自殺者を出している。この十年だけでもイラク戦争の死者の総計を優に超す30万人以上の死者を出していること........その事実を、はたして僕らは実感出来ているのだろうか。。このリアリティー抜きに、まるでよそ事のように振る舞って、極々身近な死を語る・・・・嘗て、こういった姿勢を『実存的無関心』と呼んでいたことがあったっけ。



でも、正直と言えば正直で、「人類を愛する方が、隣人を愛するより容易い」という格言もあるほどで、遠い遙か海の向こうで起きている戦争で亡くなる人のことより、身近な身の周りで起きた人の死の方がリアリティーをもつということも素直な感情だ。



例えとして適当じゃないかも知れないが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』での死の取り扱いは、突然暴力的に意表を突くかたちでやって来るわけではなく、吉本さんが指摘するように、夢のような、あるいはファンタジーのような、現実とも非現実ともつかないかたちで現実の中に死や死後の世界を潜ませて描いている。
今の若い人達の死は、コンビニで買ったキャンペーン中の賞味期限ぎりぎりの100円おにぎりを、腹が減ったと横で言う友達にあげたら、それを食べた友達がそれにアタって死んでしまった・・・・あげた本人は、そのことを深く悔やんでずっと救われない・・・・・そんな『半径10mの関心』といわれる世界を描く方にリアリティーをもっている。



「それのどこが悪いんですか!」と言われれば、それまでなんですが...........



ただ、宮沢賢治の世界や、そこまで行かなくても『100万回生きたねこ』の最後の死に出会ってしまうと、表現者として何とも志の低いことと突っ込みを入れたくなります。
 
そんな100万回に一回あるかないかの死に、そんなに簡単に出会える訳ね~じゃん。そっちの方がリアリティーがねえよと、逆に突っ込まれそうですが。。
 
何れにしても、普遍性とか、世界とかいう宗教的な括りに囚われるのではなく、”半径10mの関心”を手掛かりに生きていこうとする姿勢が『ソラニン』の根底に流れるものなのでしょう。そういうのもあり、と棲み分けて観ていけばいいということなのかも知れません。でも、何となく寂しい気がします。


これはビートルズにリアルタイムで出会ったものの不幸?と同じで、すべての基準が歴史上希有な存在との比較になってしまい、その他の出会いが何とも薄~く感じてしまう不幸を、僕らオジサン世代は背負い込んだことにもなるのかも知れません。



今の若い人達が可愛そうと感じるのは正しくオジサンになった証拠で、若い人から見ると僕らは、「ありもしない夢」を追いかけている傲慢で気の毒な世代なのかも知れません。



でも、アニメ版『時をかける少女』のような素晴らしい作品もあるので、オジサンは決して諦めずに若い人達に期待するのであります。佐野いにおさんには、あの描写力で更に深く豊かな生と死を描いて欲しいと思いました。



おしまい。
 
 加筆

筆を置いて暫くすると、何だか舌足らずのような、佐野いにお作品に触れた割には、その真価に殆ど言葉が届いていないような、そんな消化不良感が布団に入ってからも残りました。。なので、ちょっぴり補足してみました・・・・



語尾を上げて”半疑問型”の受け答えを、今の人達のコミュニケーションの特色として取り上げられてから久しい。最近では、いい歳をしたおばさんでも結構使っているのをよく耳にする。「~みたいな」と例えるのですが、この言葉を日本で最初に(40年以上前から)頻繁に使ったのは、我が吉本隆明さんですが、最近の使い方は、ちょっと違っています。吉本さんのように断定的に使うのではなく、疑問型として語尾を上げて使われています。



このことと、佐野いにお作品に流れる空気がとても深く関わっているように僕には思えます。

”半疑問型”の意味するところは、会話(コミュニケーション)の前提として、”こちら側の想いは、まず伝わらない”という前提から会話が始まっているというということです。このことに触れると収拾ががつかなくなるので短く触れますと、僕らは、家族だったり、職場だったり、地域だったり、PTA だったりと複数の場を跨いで所属しています。もっと言えば同じグループでも、そこには幾つかの複数の空気が流れる場が存在したりします。
 
   
 そんな風に僕らの現実は、けっこう複雑に錯綜とした場をもって生きています。このことは、それぞれの場には、それぞれの”言葉”が使われていて、Aという場では、Aという言葉を使いコミュニケーションを図り、Bという場では、Bという言葉を使い分けています。ここではここ、ここではここと、それぞれの人が複数のグループに所属して複数の価値観を理解して会話を成立しようと努力します。そうなると、お互い伝わらないことも多々出て来ます。そこで登場するのが”半疑問型”です。これは、会話を外したときも、そうでないときも精神的に折れることなく、そして会話を途切れさせることなく持続させることを可能にします。それが今の社会で”半疑問型”が頻繁に使われる理由だと思います。



『ソラニン』の様々な場面で「伝わっていない感」が出て来ます。笑いを抑えた悲しさとか、怒りを含んだ愛情とか、不安と憎しみと愛情が混沌と螺旋状に行き来する感情など、「悲しみ」とか「愛」とか「怒り」、そして「絶望」といった単色の括りでは例えられない珠虫色の心理というか、その微妙な機微をとらえて表情として描く術と、その機微を捕える感性が”半疑問型”社会を映す浅野いにお作『ソラニン』の優れたところだと感じました。
 
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