とうちゃん、とうちゃん、すげーよ。 まーいいから見てみなって。。 先日、この春社会人になった次男が、友人の「 maru から教わったんだ。。。」とユーチューブで耳垢取りの映像を見つけてきた。ちょっとグロですがご覧あれ(よい子は、食事時に見てはいけません)・・・・ http://www.youtube.com/watch?v=_GQUo6uX12c |
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「maru とは、いい耳かきを見つけたら、お互い連絡し合うことになってるんだ。。」という仲で、この映像も耳寄りな話として連絡が入ったようです;;; 以前にも「耳掻き」という short column を書いたことがありましたが、耳は、五感の中でもとても特殊な感覚器官で、どこか僕らを引きつける何かがあります。そして、聴覚は、胎児が母胎に宿って7~8ヶ月目には外界の音を聞き分けるところまで完成し、続いて視覚が完成するということです。つまり、一番最初に出来上がる感覚器官が聴覚、即ち「耳」と言うことになります。 僕らは、「ものが見える」という有り様を、「眼」という感覚器官だけで成立していると考えがちですが、実は、そんな単純ではないようです。 これは、よく取り上げられるのですが、人が瀕死の重傷を負った時、空中に浮上した自分の<眼>が、瀕死の自分自身の姿とそれを取り巻く医者や看護婦、そして近親者家族の姿を視る・・・という話があります。こういった事態を、あるところで吉本隆明さんとの対談の中で脳性理学者の養老孟司さんが次のように言っていました・・・・ 意識が衰え<眼>が視えなくなっても<耳>の感覚はまだ活発だといえるから、<耳>からくる視線が働くのではないか・・・・ |
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(先日の「タモリ倶楽部」) |
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実は、吉本さんは、もっと凄いことを言っています。 えっ、これってどこかで視たことがある光景、たしか、これと同じシチュエーション昔あったような・・・・ そんな体験を誰もがしていると思います。いわゆるデジャブです。 <デジャブ>とよく言いますが、日本語に直すと<既視感>あるいは<既視体験>のことをいいます。このメカニズムですが、一番通俗的な仮説は、前世の記憶が立ち返ってくる現象などと言われたりします。吉本さんの説はこうです・・・ 母胎に宿った胎児は、聴覚、そして視覚ともに完成した後、外界(母胎の外あるいは、母胎そのもの.....母親の鼓動など)の音を聴き取ったとき、真っ暗な子宮の闇の中で視覚を働かせ、光のない中で、ある<像>を結びます。これは、僕らが出産後に働く視覚のメカニズムとは、まったく異なり、いわば聴覚主導の視覚化といえます。そういった感覚のメカニズムを無意識に保存したまま、人は成長し、後にある偶然性の中で、その原始の記憶が立ち上がってきたとき、ひとはデジャブ(「どこかで視たことがある光景」)という体験をします。 つまり、実際の現物を見ることが出来ない視覚が、聴覚と連動してイメージに似た<像>を仮りに結ぶ。胎児が出産前に仮設で作る視覚像のメカニズムを、出産後にある偶然から呼び覚まし無意識から引き出す現象・・・・それが、デジャブのメカニズムだということです。正確にいうと、自分のなかで、知覚・理解・認識・了解が循環してしている構造ともいえます(益々分りづらくなったでしょうか?)。 聴覚は、それだけで単独で完結する器官ではなく、視覚などの感覚器官と深く連動しながら働き続けている・・・と言うのが実相です。 |
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(三木富雄 作) |
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そして、<耳>は、命の最期まで働き続ける感覚器官でもあります。心臓が止まり<ご臨終です>とお医者さんが、その宣告を家族にした後でも、耳は働き続けているといわれています。つまり外の音が、本人に聞こえているということになります。「脳死」の判定を反対する方々の根拠も、ここにあるかも知れません。 つづく |
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