とうちゃん、とうちゃん、すげーよ。  まーいいから見てみなって。。

先日、この春社会人になった次男が、友人の「 maru から教わったんだ。。。」とユーチューブで耳垢取りの映像を見つけてきた。ちょっとグロですがご覧あれ
(よい子は、食事時に見てはいけません)・・・・

 
http://www.youtube.com/watch?v=_GQUo6uX12c


Today's image index
2009
04/06 耳寄りなお話
彼岸
湯飲み
確定申告の季節
「おくりびと」
別冊マーガレット
昼の月
アメリカンクラブ
正月明け
元旦
謹賀新年
「maru とは、いい耳かきを見つけたら、お互い連絡し合うことになってるんだ。。」という仲で、この映像も耳寄りな話として連絡が入ったようです;;;



以前にも「
耳掻き」という short column を書いたことがありましたが、耳は、五感の中でもとても特殊な感覚器官で、どこか僕らを引きつける何かがあります。そして、聴覚は、胎児が母胎に宿って7~8ヶ月目には外界の音を聞き分けるところまで完成し、続いて視覚が完成するということです。つまり、一番最初に出来上がる感覚器官が聴覚、即ち「耳」と言うことになります。



僕らは、「ものが見える」という有り様を、「眼」という感覚器官だけで成立していると考えがちですが、実は、そんな単純ではないようです。
これは、よく取り上げられるのですが、人が瀕死の重傷を負った時、空中に浮上した自分の<眼>が、瀕死の自分自身の姿とそれを取り巻く医者や看護婦、そして近親者家族の姿を視る・・・という話があります。こういった事態を、あるところで吉本隆明さんとの対談の中で脳性理学者の養老孟司さんが次のように言っていました・・・・


意識が衰え<眼>が視えなくなっても<耳>の感覚はまだ活発だといえるから、<耳>からくる視線が働くのではないか・・・・
Today's image index
2008
年の瀬
晩秋
志ん生と小林秀雄
個展・銀座
ネットショップ
草食系男子
タモリの弔辞
山本モナが好きだ
since 1999
結婚と人生を振り返る?
ハマヤキ
CMのこと
「つわり」のこと
消したい過去
空間の偏り
銀座の今
春の予感
息子のこと
確定申告
上方『銀花』
個展間近です
おめでたい覚悟
元 旦


三ツ星 file index
珠玉の話
大工牧野 恋するミトコンドリア?
大工牧野軍団 博士の愛した数式
中田の憤死 白川静
名  人 卒業おめでとう!
小 笑
本屋の Ben-i  玉虫
大学受験面接 続・恋するミトコンドリア
新粉筒 奥日光
エピステーメ ペット
しゃがれ声 up 南伊豆
家族談
猫がきらい 自分を引き受ける
朝のリレー 涙っていいな・・・
サッカー部復帰 悪魔のヘルパー
僕の町(沼間)
恋愛(男女観)
十代の恋 チャングムの誓い
雨上がりの桜 荒井由美のリビドー(性)
風  情
物憂い秋 大犬のふぐり
平安からの風
耳掻き 吾輩は主婦である
秋は煙 東京が好きだ
曇天 立秋
つわり 夏の臭い
小津安二郎の世界 星に願いを
薫風
木の実 up 明日香村石舞台
得する社会評
男女共同参画社会 暴力の根元について
伊豆(地域の空洞化) 「沼」はダサイ?
宗教について 最近の子はよく寝る
介護の問題 8月15日
サービス残業0法案
時 事 ネ タ
柳沢発言 ロンドンの自爆テロ
イラク増兵 すねの傷
アート
年賀状制作中の巻 邦画『GO』と「n個の性」
石原慎太郎とのこと 東京再開発
超資本主義の中の工芸誌 中国現代美術の動向
民芸館 「厨子三様」
chain saw
手探りのキッス 「お・ばんざい!」(死について)
My favorite things
万年筆 植木等
ダイソー のCD リフティング
タモリの名言 up VW TYPE Ⅱ


中原中也 file index
short essay
小林秀雄
盲目の秋
梅雨の晴れ間
春の予感
中也詩椀

工芸の現在
はじめに
マニュファクチャーと付加価値
伝統工芸産地の今
新たな流通の確立へ
生活スタイルを決める経済
理想の生活スタイル
退潮著しい伝統工芸
<消費>について
続<消費>について




Home index



Today's image index
2009
04/06 耳寄りなお話
彼岸
湯飲み
確定申告
「おくりびと」
別冊マーガレット
昼の月
アメリカンクラブ
正月明け
元旦
謹賀新年


Home index


page top

(先日の「タモリ倶楽部」)
実は、吉本さんは、もっと凄いことを言っています。


えっ、これってどこかで視たことがある光景、たしか、これと同じシチュエーション昔あったような・・・・
そんな体験を誰もがしていると思います。いわゆるデジャブです。


<デジャブ>とよく言いますが、日本語に直すと<既視感>あるいは<既視体験>のことをいいます。このメカニズムですが、一番通俗的な仮説は、前世の記憶が立ち返ってくる現象などと言われたりします。吉本さんの説はこうです・・・



母胎に宿った胎児は、聴覚、そして視覚ともに完成した後、外界(母胎の外あるいは、母胎そのもの.....母親の鼓動など)の音を聴き取ったとき、真っ暗な子宮の闇の中で視覚を働かせ、光のない中で、ある<像>を結びます。これは、僕らが出産後に働く視覚のメカニズムとは、まったく異なり、いわば聴覚主導の視覚化といえます。そういった感覚のメカニズムを無意識に保存したまま、人は成長し、後にある偶然性の中で、その原始の記憶が立ち上がってきたとき、ひとはデジャブ(「どこかで視たことがある光景」)という体験をします。


つまり、実際の現物を見ることが出来ない視覚が、聴覚と連動してイメージに似た<像>を仮りに結ぶ。胎児が出産前に仮設で作る視覚像のメカニズムを、出産後にある偶然から呼び覚まし無意識から引き出す現象・・・・それが、デジャブのメカニズムだということです。正確にいうと、自分のなかで、知覚・理解・認識・了解が循環してしている構造ともいえます(益々分りづらくなったでしょうか?)。



聴覚は、それだけで単独で完結する器官ではなく、視覚などの感覚器官と深く連動しながら働き続けている・・・と言うのが実相です。

(三木富雄 作)
そして、<耳>は、命の最期まで働き続ける感覚器官でもあります。心臓が止まり<ご臨終です>とお医者さんが、その宣告を家族にした後でも、耳は働き続けているといわれています。つまり外の音が、本人に聞こえているということになります。「脳死」の判定を反対する方々の根拠も、ここにあるかも知れません。




つづく