男女共同参画社会とは
*「男女共同参画」の意味するところ
女性問題に深く取り組んでいくと、これは単に男女の対立軸で取り扱う問題ではない事が分かってきます。
そもそも何故、男女共同参画などと国(内閣府)が言い出したのか?ということがあります。それは、御存知のように近代資本主義社会が成熟することで消費資本主義(超資本主義)に移行し、それに伴ってそれまで国の基盤となっていた近代家族が、「新しい家族」へ移行しなければならなくなったという大情況があります。
我が国の産業構成を見てみると、図のように近代化当初に比較して、それぞれの次元が逆転している事が分かります。この資料は1987年のもので、現在は、さらに第三次産業に従事する人口比は増えているのが予想されます。
この消費社会を支える「新しい家族」は、現在では第三次産業に70%の人々が従事し、家計支出の内訳のを見ると、選択消費(保健・医療、教育費、娯楽費等)と基本消費(食料・衣料、家賃、家庭用耐久財等)がそれぞれ50%といった比率になってきています。
* 産業構造の変化による家族の変容
かって、国家は家族(近代家族)と一線を画し、家族は強固に外部と閉じることが理想で、国家も家族に関与しない事を旨としていました。(民事不介入がその典型的なスタンスでした)。また、行政も近代資本主義社会=市場社会の外側で成立出来ていました。しかし、オイルショック以後、特にバブル崩壊後の今日、国家は通貨を管理することで外国からの影響を緩和・コントロールするようになり、また、総需要をコントロールして雇用問題等を解決しようと試みています。この様な状況下にあって国家は、ビルト・イン・スタビライザー(自動補助的安全装置)によって何とかバランスをとるよう努力していますがうまくいっていないのが現状です。
従って、国の財政も逼迫し、地方行政は地方行政としてそれぞれ独自に運営することに臨まざる得なくなっています。その結果、地方行政は市場を強く意識し、その運営感覚を積極的に取り入れて行かなければなりません。つまり、国家あるいは行政とマーケット(市場)、同じく、行政と家族の境がお互いに浸食されつつあるという情況があります。例えば、幼児虐待や、DVに対し行政が、あるいは警察が積極的に関与することが必要とされてきています。
この様な情況にあって「新しい家族」が、満足する体裁をととのえたイメージを保つには、選択消費をどれだけ豊に出来るかに掛かってきます。そのため、各家庭は夫一人が仕事に就くことで運営する近代家族とは異なり、妻も積極的に家庭から出て市場にその糧を求めて就労に就かなければならなくなっています。
その結果、家事・育児・介護は、妻一人で切り盛りするのは無理で、夫と分担しなければならなくなり、所謂男女共同参画社会無くしては、家族の運営が実質的に不可能になってきています。不幸にも、全ての負担が女性だけに掛けられたら、例外なくその家族は解体することになります。
以上のように、旧来の近代家族の形態を残余として当面引きずりつつ「新しい家族」へと移行しているのが現在の家族像のようです。このように、過渡期にある家族は、相対的に女性への過度な負担を強いつつ「新しい家族」へと脱皮するわけですが、当然そのストレスは女性個人の内で解消されず、子供や老人へ虐待という負の表現として向かわざる得ません。その結果として社会は混乱・疲弊していき、そして母親から子供へとこの負の遺産は再生産され、やがて、この連鎖が家族内に醸造されることになります。
2001年 記