宗教について
僕の寝室は和式の万年ぶとん(ヴィトンではない)が、かみさんの分と僕のものが敷き放しだ。
おまけにかみさんの枕元には、アットランダムに様々なジャンルと購入法(図書館を始め、古本屋、それに町中の書店等)で手に入れたミステリー・SF・ノンフィクション・三文恋愛小説・老人介護関係の書物と、足の踏み場もないくらいうず高く積まれていて壮観だ(散らかっているという言い方もあるかな)。
僕の枕元は、格調高い哲学思想と学術的な硬い書物ばかりだ。ウソです(^^;)。
この間仰向けになって寝転がったら頭にごつんとぶつかるものがある。。。。くそっ、ちゃんと片づけろよ!?と表紙を見たところ「涼しい脳味噌」(養老孟司著)とあり、へ〜かみさんこんなの読むんだ・・・・・・・、とぱらぱらとめくってみたところ、これが結構面白い(文章は支離滅裂で、あちゃこちゃ飛ぶ=人のことは言えないが)。
特に幕末の江戸で蘭学として解剖学を学んだ杉田玄白に触れている箇所がおも白い。
彼の師は宣教師ヨハン・シドッチだが、シドッチは極東の辺境日本にキリスト教の布教を第一義とする目的で来日し、その布教に心血を注ぐ傍ら天文学や解剖学を二次的に教えていたわけだが、当の杉田玄白らは、「宗教=信仰」など右の耳から左の耳に抜けてしまい、本来「神から人間へ」という重いテーマだったスタンスが、日本に入るやいなや何事にも実利と効用優先「ただいま生きている人間にしか、価値を置かない」という姿勢が徹底していたという。
しかし、養老孟司は言う。宗教観から全体性を持って天文学や解剖学をアプローチする姿勢は、単なる実利としての学問探究の姿勢と雲泥の差があると・・・・・・・。
ヨーッロッパでは、高齢になって一番関心を持つことはちょっと意外だが、「宗教」だと確か吉本さんが言っていた。(ヨーロッパでは既に神は死んだのかと思っていたのだが?)。
日本の関心事は「健康」だ。ベクトルの向きが全く逆を向いていると思う。
あちら側(彼岸)から見る視線をもつヨーロッパの老人と、こちら側(此岸)に留まっている視線をもち生きている日本の老人とはかなり違った人生観を持つと思う。どっちが好いのか今は分からないが、彼岸のイメージの持てない日本人は、「老い」=「不要」といった等式が即座に成り立ちかなり老後はきついと思う。殆ど余生といった概念に覆われているかも。
これじゃ〜自分自身に価値を感じられず、老後は旅行や趣味そして、孫の世話に生きるといった「隠居」の姿しかイメージできない。
これが良いのか悪いのか未だ判断しかねるが、でも着実に子供や孫に頼れない社会は直ぐそこまで来ている。そのとき僕らは、新しい「宗教」を持たずにこの難関を超えられるのだろうか・・・・・?
今日のニュースで、青山墓地が45年振りに分譲し一千万円を超える破格の墓地に2000人以上の応募があったという。
日本人は、自分の「死」をもブランドで覆うのか・・・・・「死」とは自分のものではないことに気づいていないのはちょっと情けないのでは?・・・・・大きなお世話かもしれない。
僕は、以前から現在住んでいる町(逗子)に共同墓地を造り(海を一望できる大崎公園がいい)、モダンなあるいはイサムノグチのような自然石の墓石をモニュメントにして希望者を集えばいいと考えているし、実際提案したこともある。
入居?料は、最低額が5万円、上限は無しで5万円以上を寄付金として納められたならそれは、地域の文化活動に使うためプールし適材適所に適宜使用する・・というのはどうだろうか。その際散骨もありだ。
シティーアイデンティティーとは、老人介護で終わっていたのでは未完成。死後のこともサポートして完成するものだと思うのだが如何でしょうか・・・・?