9/21 退潮著しい伝統工芸 昨日、友人の大工牧野さんが、常滑での仕事を終え帰って来たその足で、乗らなくなった真っ赤なカッコいい little Cub をわざわざ届けに来てくれた(我が息子がバイクをお釈迦にしたのだ)。 久し振りに常滑の話をハカセ以外の人から聞かされた。 常滑では、今まであった窯業場の多くが、廃業となっている。丁度、ある業者が、長さ100mもあろうかという窯を解体しタイに向けて荷積みをしていたという。 無理もない。これ以上の合理化を進めても、最早、従業員へ日本の平均給与を支払うことは出来なくなったのです。寂しい;; |
工芸が雑誌や大手デパートのフロアーから消えたのは.........。 {ここで言う「工芸」とは、伝統工芸を指します。つまり、コンテンポラリーな工芸は、経済構造(流通機構=下部構造)と表現内容(デザイン=上部構造)を時間軸にズレを持たせずに成立する工芸を指しますから、今で言えばインダストリアルデザインによる工業製品になります。} それは、端的に言ってその生産性の低さということにに尽きるのではないでしょうか。つまり、この業界での単位時間当たりの利益率がとても低い.......簡単に言うと儲からないということです。 恐らく、数えあげれば他にもいくつかの要因が考えられます。しかし、今の日本の経済機構からすると、製造業でありながら、平均的給与を保障することが可能な就業形態は、付加価値生産が可能な業種を除いて、家内制手工業という生産様式では成り立ち得ません。 機械化せずに人の手を介することで生産性をあげることには限界があります。 機械化は、人間性を失わせ疎外する.......のも事実ですが、それを言う前に、この国では、機械化なしでは人の存続さえ危うくなります。 |
|||||||||||
以前、銀座Mデパートで展示会を開いたとき、そのフロアーにいらしたスタッフの方とお話していたところ、その方の元の売り場は呉服だったのですが、収益が上がらないため、呉服は撤退し、縮小した工芸のフロアーに移されたことを聞き寂しい思いをしたことがあります。 |
(『モダンタイムス』より) |
|||||||||||
段々元気がなくなって来そうな話が続きますが、これが今の工芸の現実です。 でも、僕らは、まず現実を直視するところから始めなければ.........。 では、伝統工芸に未来はないのでしょうか? 僕は「否」と答えます。 ただ、今まで通りのことを繰り返しているだけでは、未来はないことは明白です。 先日、こんなことがありました。 漆芸の中で「螺鈿象嵌」という古い技法があります。お隣の朝鮮にはこの技法を使った名作が数多くあります。 |
グローバル化の進む中で、製造業の自然な成り行きは、工賃の安い中国やタイ、そしてヴェトナムなどにその生産拠点を移し、そこで仕上げた製品を本国の市場に持ち帰るといった生産形態にシフトを変えていかざるを得ません。 勿論、日本国内は、このことで空洞化します。 残念ながら付加価値生産が不可能な製造業種には、それ以外の道は存在しません。従って、それ以外の延命策は、他業種に鞍替えするしかなくなっています。 世の中の生産軸が相対的に量産型へとシフトしている今、就業者はそちらの現場へと移っていくのが自然です。 また、人々が欲しい情報も就業者比率に比例して変動するのも自然の流れです。 こうして、今日も全国の地場産業として成り立っていた伝統工芸は、退潮を余儀なくされています。それに連動して、それまで工芸を載せていたメディア(雑誌)は、よりニーズの多い分野の情報へとその触手を伸ばし、活動のフィールドを移しています。 今では、人々の関心ごとは、他者に向けての自己イメージの象徴としての『アパレル』や、労働形態の過酷さが引き起こす現代病と裏腹である『健康』へと移っています(交通事故による死亡者が年間8千人であるのに比べ、自殺者が3万人を超えているという日本の現状は、尋常ではありません)。 雑誌社も、霞を食って生きながらえる訳には行きませんから、今の人々が何に一番関心を持っているかにとても敏感にならざるを得ません。残念なことに、人々の関心が工芸から離れていることがメディアからは見て取れます。 |
|
||||||||||
鮑や夜光貝を平らに削ったものを漆の塗面に埋め込む「象嵌」という技法を使ったものです。 僕もこの技法に以前から関心がありますが、素材の貝があまりいいものがなく、あっても宝石並に高価なものになってしまいます。 そこで「今の貝」に相当するものは何なのか考えた末、遂に見つけました・・・。 それは、ホログラフという薄いアルミにアクリルをコーティングすることで虹色に光を反射する素材です。 |
(『モダンタイムス』より) |
|||||||||||
あまり大きなサイズがないので、メーカーに問い合わせてみました。 色々質問をしているうちに意外な事実が分かりました。 なんと、そのメーカは、嘗て漆工芸界に向け、様々な「貝」を提供していた業者さんだったのです。 「フォログラフを何にお使いですか?」という業者さんの質問に「実は、漆工芸をやってまして、螺鈿のようにに使いたいのですが....」と伝えたところ「わが社は、今も螺鈿用の素材を扱っておりますのでご利用ください!」というお答え。 その業者とは、現在ネイル・アートの素材メーカーとして立派に再生しています。 |
こういった現実を前にして、工芸に携わる僕らは今何をするべきでしょうか? こころ穏やかに、そして、冷静にこの現実を受け入れてみると、案外スムースにあらたな打開策は見えてきます。 依然として情報発信の中心である雑誌に関していうと、現在の出版社は例外なく各企業からの広告で成り立っていますから(他のメディアも同様です)TVコマーシャルの構造と同じ様に、TVでいう視聴率に相当する発行部数に比例して、その広告料が決まります(部数の少ない雑誌には、広告が付かないのは言うまでもありません)。 従って、各雑誌は、人々のニーズの平均偏差が集中する「ネタ」に合わせた編集になり、結果としてどの雑誌も同じ様な「顔」になってしまいます。 こういった様は、経済原理が支配している象徴ですから、僕らは事実として認めざるを得ません。しかし、僕らが欲しい情報が、必ずしも皆が欲しがる「ネタ」とは限りません。そして、心理学が唱えるように、流行の萌芽は皆と違ったものが欲しいという欲求から出るのも事実です。 だとしたら、経済原理にあまり支配されていないフィールドと、そこでの情報発信の可能性を探ることの中に、新たな方向性があるのではないでしょうか? つづく(9/21) |