(知り合いの平田さんが自主制作「長谷川泰子」の試写会に本人を呼んだ時の画像です)
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やっぱり泰子は美しい。

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。


誰が何を言おうと泰子は美しいのだ。

僕の長谷川泰子像は、小林秀雄や中原中也側に立って作られたものだった。これってフェアじゃないなぁと思っていたところで長谷川泰子を検索していたところ「二葉亭餓鬼録」というサイトに行き着き、泰子側に立った、というかご本人の回想録が紹介されていた。これは是非目を通さなければと Amazon で「ゆきてかえらぬー中原中也との愛」を求めた。
泰子は確かに病んでいた。彼女の出自だが、若くして父親を失い、その後父親が遺した借金苦もあって母親は首つり自殺を企てるが、その最初の発見者が幼い泰子であった。幸い一命は取り留めたが生き別れとなる。幼少時に受けた傷たるや尋常じゃないので、これじゃぁ誰でも病む。

その後も、思春期に親代わりに世話になった義理の兄に執拗に暴力を受ける訳だから、この時点で将来は決まっていたようなものだ。

盲目の秋

 
   Ⅰ

風が立ち、浪(なみ)が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

その間(かん)、小さな紅(くれない)の花が見えはするが、
  それもやがては潰(つぶ)れてしまう。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思って
  酷薄(こくはく)な嘆息(たんそく)するのも幾(いく)たびであろう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え、
  去りゆく女が最後にくれる笑(えま)いのように、
  
厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでいて佗(わび)しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      ああ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

   Ⅱ

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余(あまり)はすべてなるままだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行(おこな)いを罪としない。

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!

   Ⅲ

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……

それというのも私が素直(すなお)でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地(いくじ)がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……

おお! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。

   Ⅳ

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射(ふくしゃ)していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつ俯(ぶ)して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径(みち)を昇りゆく。

中也の詩を一つだけあげろ・・・と言われたら「盲目の秋」をあげると思う。この詩は、泰子が小林秀雄の下へいった直後に詠んだ、虚無と侘しさと絶望からの詩だ。

中也の詩の価値を深く理解していたのは確かに小林秀雄だが、中也の詩の源泉がどこからやって来るのかをよく知っていたのは泰子だろう。泰子が女優を目指して京都の表現座に在籍していた頃、稽古場にダダ一色のノートを携えて中也は顔を出した。16歳の中学生で故郷を捨てて京都に来た中也は、自分の詩がどの程度のものなのかも分からないまま泰子に見せたのだと思う。
「おもしろいじゃないの」・・・・これが全て。

泰子が劇団とトラブって行くところもなくなり「ならば僕のところに来れば」という流れで同居することになる。
詩が仕上がると先ず泰子に聞かせたという。泰子は「涙をボロボロ流して泣いたときもある…」ということなので、中也としては最大の理解者であり、また大きく背中を押してくれる存在でもあったのだろう。

その泰子の回顧録「ゆきてかえらぬー中原中也との愛」の巻頭にあげた詩が「盲目の秋」。
代々続く医者の家系に生まれ、親の期待に応えて神童の誉れ高かった中也が、その道を外したのは、八歳の時の弟の死で、そのことがあって文学に目覚めたといわれている。感受性の強い中也にとって、弟の死は文学をもって癒さなければならなかったほどのダメージだったのだろう。中也の詩全編に貫徹する、悲しみ、侘しさ、絶望、そして虚無は、弟の死、そして人の死をどう了解するのかのメタファーだ。

今回、泰子の回顧録で幾つかの興味深い事実を知った。中也のもとを去り小林と同棲するようになった泰子たち二人は、東京を離れ鎌倉に住むわけだが、間借りしたところが、長谷大仏前の鎌倉彫の店の二階というのだが、僕にはそこがどこだか察しが付く。僕の修行時代、当然この辺りは自転車でよく通った。泰子の神経症からくる潔癖症のため、ここには半年ほどで逗子に転居したというのも何か因縁を感ずる。残念ながら池谷信三郎邸の一階に間貸ししたとは記されているが、逗子のどの地かの記載がなかった(知っていたらうろついたんですが.......)
泰子との同居中(泰子には同棲だという認識になかった)中也はいつも兄や父のように振る舞ったということだ、三歳も若いのに。それは、泰子の生い立ちからくるものなのだろう。泰子は、お料理や片付けなど、身の回りのこと一般に関して全く不得手というか関心がないかのようだったという。中也のように家族から大事に育てられることが全くなかった泰子は、生活の基礎になる所謂躾を全く受けることなく育った様だ。そのことをよく中也に揶揄されて喧嘩にもなったという微笑ましいエピソードも載っていた。

病んでいるひとにある種魅力を感じてしまうのは僕にも覚えがある。それは、自分にも共通する病むことの元始が、自分の内面に多少なりともあることに気付いているからかも知れないし、病むということを”表現(=創造)の亜種”と考えることも出来るからだ。「表現とは一つの疎外である」といったのは吉本さんだが、病むということそのものが表現(=創造)の構造に被るということでもあると僕は理解している。

小林の帰りをただただじっとして待っている泰子は、小林が帰ってくるなり留守中虎視眈々と用意していた質問「玄関の引き戸の音は数になおすといくつなの」等々を浴びせかけ、気に入った回答がないと地団駄踏んで泣きわめいたというから小林も堪ったものじゃなかっただろう。泰子の潔癖症も極まって、もう後からが面倒くさいから、ボタンかけから靴紐まですべて小林がやってあげていたとある(何かわかるなぁ)
 
  ”病む”ということの構造に、”表現(=創造)の亜種”が重なると言うことに触れたが、小林にしても中也にしても、単に泰子が美人だからとか、男好きがするとかいった類の感情で近づいたとは思えない。世にいう何とか小町などという類の女性は案外多い。東大の仏文で尚且つハンサムな小林など女には事欠かなかったろう。僕は、その二人が共に、病む泰子の中に「表現の元始」を見ていたのではないかと思う。病むということと表現一般には、それ位近似な要素が多いということだ。

吉本さんにしても、『心的現象論序説』のなかで「異常または病的とは何か」あるいは「心的現象としての精神分裂病」といった考察を徹底してやっている。それ位”病む”ということの中身は、ある種表現に近似した心的現象と言えるからだ。そのことに小林も中也も気付いていなかったとは思えない。表現に憑かれた二人が、地獄の様な三角関係のただ中で彷徨い求めたのは、中原のいう「名辞以前」としての表現の元始を持つ病んだ泰子に、その価値を見出していたからに他ならない。

「名辞以前」とは…
中也は、「芸術論覚え書」で次のように記している。
「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。=『名辞以前』

つまり、言葉が生まれる直前の〝原言葉”(こういう表現が適当かどうかは分からないが)を押さえ、それですべてを満たすことが詩の理想形と中也は考えて詩作に励んでいたに違いない。病んだ泰子と一緒に〝居る”ということはそういうことを意味していたはずである。
 

サーカス

 
幾時代かがありまして
  茶色い戦争ありました

幾時代かがありまして
  冬は疾風(しっぷう)吹きました

幾時代かがありまして
  今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り
    今夜此処での一と殷盛り

サーカス小屋は高い梁(はり)
  そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ

頭倒(あたまさか)さに手を垂れて
  汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

それの近くの白い灯(ひ)が
  安値(やす)いリボンと息を吐(は)き

観客様はみな鰯(いわし)
  咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

      屋外(やがい)は真ッ闇(くら) 闇の闇
      夜は劫々と更けまする
      落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
      ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

もうぎりぎりの表現だ。これ以上独自の創作したら全く意味が通じなくなるぎりぎりまで「名辞以前」を満たしている。凡庸な言い方だが、中也は天才だ。

そう、泰子だ。結局彼女は「愛す」ということを一度も経験することなく逝ったと思える。これはよく言われることだが「人は愛された分しか愛せない」ということ。その意味で泰子は中也や小林に出会う前、誰からも愛されてこなかったのではないか。。彼女の一生は、そういった自分をどう手当てするかで終始したであろうし、そのためには、自分がどの位男の気を引けるかで自分の価値を測ったであろう。

後に河上徹太郎が『私の詩の真実』の中で書いていたように「日常実に瑣細な、例えば自分の着物の裾が畳の何番目の目の上にあるかとか、…」といった神経症的な小林への問いは、成熟した大人になるため親から貰わなければならない重要な何かが欠損している自分と、その自分以外には全く興味がもてない彼女の表現だったのだろう。
   
  女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。(小林秀雄)

仰る通り。

ただ、僕の世代では、こういった風にすっきりと「男」、「女」、と峻別して口に出すことは出来ない。それは、フェミニズムの動きがあった時代に生きてきたことによる。
「On ne naît pas femme:on le devient. 人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というボーヴォワールの言葉に象徴されるように、女性という在り様は、女性としての役割を社会から被せられるものに過ぎないといった性の理解のことだ。この観点は、漱石がもっていた男女観に近いものがある。つまり「漱石が女性、具体的には奥さんのなかに見ようとしていたのは「女」ではなく「人間」を見ようとしていた。別の言い方をすると男に対しても、女に対しても常にホモジュニアスな均質な関係を見ようとしていた」(吉本)。

「小林の場合は、女を女として見ようとしていて、そうすることで抜き差しならない関係にある自分を、もう一人の自分がいつも見ているという特殊な関係を築いていた」(吉本)。
 
バルザック記念像前のボーヴォワールとサルトル。
  僕は、明らかに漱石型の人間になる。小林のように、女性を「女」として見ることに、どうしても抵抗があるのだ。これは自動反射的にそう対応してしまうので厄介だ。もちろん、女性を性として見るときには性としての女性、つまりここでいう「女」あるいは女体としての関心は強く持つ(ここでいう「女」と女体は必ずしも同じではないのだが…・)。でも、女性と対面してコミュニケーションを取る場面では、無意識であれ相手を性としての女性としてコミュニケーションをとっていることは間違いないので、結局のところ相手を「女」として関わっていることになる(ややこしい;;;)。だから小林と精神構造は同じなのだが、僕らの時代特有の女性に対しての気遣いというか屈折がある分面倒くさく、ストレートに「女は…」とは言えない(一度言ってみたいのだが…)

いくら男女同権といっても、女も男もそれぞれの性の無意識の歴史があるので、それを引きずりつつ成るべく対等に…という力学の下で会話する、あるいは付き合うということになるので、このこともそれぞれを分かり辛くしているように感じる。

それにしても女性は(まだ女と言えません)、逞しいし強いです。美輪明宏じゃありませんが「今まで生きて来て、弱い女と強い男には会ったことがない」、まさしく至言です。そう言えば小林秀雄が「ちょっと敏感な男なら、女に対してある種の恐怖をもっている」って言ってました。

寿福寺境内の掘ろ穴……中也は掘ろ穴に向けて虚しく空気銃を撃っていたという........
  「好きと言えず、愛情を確かめるためにいじめた。男に甘えきって自分がわからなくなった」(泰子)

こんなことをされちゃ、男は成熟するしかないよなぁ。。でも泰子は泰子で必死だったのでしょうね。中也には気の毒だけど、他の男と一緒になった時も、ほとんど中也を想うことはなかったというから、自分のことで精いっぱいだったということ。中也は、小林のように逃げることは出来なかったし、泰子と他の男との間にできた子供に茂樹という名を付け可愛がったというから、小林のいうように「惚れるということは、愛しているんだか憎んでいるんだか最早わからない」ということになると思います。

 俺は戀愛の裡にほんたうの意味の愛があるかどうかという様な事は知らない。だが少なくともほんたうの意味の人と人との間の交渉はある。惚れた者同士の認識が、傍人の窺い知れない様々な可能性をもってゐるという事は、彼等が夢みてゐる証拠とはならない。世間との交渉を遮断したこの極めて複雑な國で、俺達は寧ろ覚め切ってゐる。傍人は酔ってゐると見える程覚め切ってゐるものだ。この時くらゐ人は他人を間近で仔細に眺める時はない……惟ふに人が成熟する唯一の場所なのだ。(「Xへの手紙」小林秀雄)

思い返せば僕自身も物心ついてからこの方、理想の女性のために物を作ったりものを書いたりしているところがある。単純に、それが一番分かり易い制作意欲で、そういった指向性が自分にあることに最近気付いた(遅い!)。春画を描くことが、絵の技術を上げるための一番の近道だということに似てるかな。。

ということで、なかなか俗っぽくいい終り方になりました。男と女の問題は、俗っぽさに本質があるということで、お後が宜しいようで。。
   一つのメルヘン
 
秋の夜(よ)は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。

陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄(いままで)流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
 
鎌倉 寿福寺