達身寺(丹波市)
  Today's image index 2015
03/23  達身寺
忘れるということ 
夏目漱石と吉本隆明 
漆の実情
地域 
吉本隆明のこと
初詣
元旦 
 謹賀新年

Home index 

essay +column+
2009 --2014
Today's image index
「氷上に一木造の好い仏像さんがあるんやけど・・・・」。


先日の古文書教室の帰り83歳の長老に誘われた。

昨日、電話で確認。「何処の、何という寺ですか?」

「丹波市氷上のぱっしんじ言う名の寺や」。。

「どう書くのでしょうか?」

「土云う字を・・こなんして上下に重ねて、それに之繞や。しんは何やったかいな。。」

「えーと、電話ですと上手く聞き取れないんですが・・・・・英字で言うとパピプペポのPでpasshinji でしょうか?」(ライトを上げ下げする寺か。。)

「うん、そや、ピーや」。

「分かりました。ネットで検索し、行き方も調べてみます」。

実際は、P じゃなくて T で Tasshinji =達身寺が正解。電話だとどちらも同じに聴こえてしまいます;;;

16体の兜跋毘沙門天
生憎愛車は車検で、代車を借りていたので長老を乗せドライブ。日本車は快適だ。

予報では、五月の陽気というこの日の朝、高速から見渡せる景色は深い霧で覆われていた。

丹波市の観光案内によると、達身寺は「丹波の正倉院」とある。正直そこまでではないが、違った意味で謎深い古刹だった。
  Today's image index 2015
03/23  達身寺
忘れるということ 
夏目漱石と吉本隆明 
漆の実情
地域 
吉本隆明のこと
初詣
元旦 
 謹賀新年

Home index 

essay +column+
2009 --2014
Today's image index

page top 
この寺の由縁は、古文書が焼かれてしまったため人々の言い伝えを手繰るしかない。寺のHPには以下↓の様に紹介されている。

達身寺は、僧兵を抱え山岳仏教の教権を張るような大寺院であったと言われている。織田信長が丹波平定を行った際、家臣である明智光秀が丹波の地を攻め、篠山城(現、篠山市)や保月城(現、丹波市春日町)などが攻められた。当時、達身寺は保月城に加勢をしていたと言われており、そのことで保月城よりも早く寺院が焼かれてしまった。僧侶たちは寺院を焼かれる前に、仏像を近くの谷へ運び出したのだが、そのまま長い年月置き去りにされてしまうことになったと伝えられている。



興味を惹かれるのは、大方朽ち果てているが夥しい数の仏体とその断片が残されていることだ。なかでも一寺に一躯奉ればよいとされている兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)が十六躯もあると言うこと。このことをもって郷土史家の船越氏は、大寺院で山岳仏教の教権を張ったと言うよりは、お堂を多く持った工房であったのではないか、そこに丹波仏師がいて造仏していたのではないか、と述べている。


僕を誘ってくれた長老は、何と前日に下見をなさっていて、おまけに過去に四度も訪れていたということ。「何度来ても好い寺や」とあっさりと仰る。僕が「道具とかの陳列もすればどうでしょうか・・・」と、伝えると、「以前は、錆びた手斧とか槍鉋とかが展示されとったんやけどな。。」ということ。この言葉にピンときた僕は、速攻スマホで「毘沙門天」と検索してみると・・・・

毘沙門天が鉱物を掘る鉱山師や、その鉱物を加工する鍛冶師などにも信仰されていた・・・・とあった。
 
生野銀山坑内
 丹波の隣、つまり僕の住む但馬の国には、生野銀山を始め、神子畑鉱山、そして産出した銅が奈良の大仏鋳造(752年建立)にも使われたとされる明延鉱山など有数の鉱山が点在する。それらの地域には、多くの抗夫が住み、その関係者とともに生活していた人々は、無事を祈って地域の寺に参っていたはずである。となると毘沙門天の発注も他地域より多いのが自然だ。よって、達身寺は寺というより仏師の工房だったと考えた方が整合性がある。

実はお供した長老は、神子畑のお生まれで、生涯を通して鉱山一筋に勤め上げたばりばりの抗夫だったそうです。達身寺に、四度も五度も通うほど魅かれてしまうのは、長老にとっては云わば霊場に通じる坑道が見えるのでは・・・・・と穿った見方もしてしまいます。
 
生野銀山坑道断面図
 運慶・快慶の快慶が丹波仏師であったという話もある。いろいろ検索すると・・・・・

東大寺の古文書の中に「丹波講師快慶」と記されており、彼は「私は丹波仏師である。もしくは丹波の地とつながりの深い仏師である。」と言っている。とすれば鎌倉時代の仏師快慶は、達身寺から出た仏師もしくは、達身寺とつながりの深い仏師であるといえる。達身寺には古文書が乏しいため、明確なことはわからない。

・・・・・とある。

因みに、運慶・快慶は鎌倉時代を代表とする仏師であるが、僕が入門した鎌倉彫宗家博古堂は、慶派つまり運慶・快慶の流れを引き継いでいるとして、確か29代目と聞いた記憶がある。

そして、↓ の菩薩は、達身寺本堂に鎮座する菩薩像で快慶作では・・・と寺の案内係の方に聴かされたが、よく見るとその顔相に品格はあるものの、衣紋等あまりに簡略化されていて気概が感じられなかったので恐らく快慶ではないと。ただ、首から下は、すっきりとミニマルな仕上げなので上品な感じはしました。もしかすると、過去に寺が火災に遭っているので、首から下を修復して繋ぎ合わせているのかも知れません。
 
達身寺は、 今では寂れた古刹だが、過去に、この地域の人々は厚く仏教を信心した訳で、寺に残った多くの寄木の破片を見るにつけ、人と宗教が特別な関係にあるということが窺い知れる。

いま世界では、ISIS が無差別テロを起こしていて、去年今年と相次いで邦人が犠牲になっている。3.20はオーム真理教が地下鉄サリン事件を起こした日。今週 TBS ラジオに島田裕巳氏(宗教学者)が出て興味深い話をしておられたが、なかでも「上九一色村のサティアンを残し、オームの事件が何だったのかをしっかり究明していれば、今回の様な ISISI の問題は起きなかっただろう」と述べていた。

先の大戦も、地下鉄サリン事件、そして原発事故も、全てなかったかのように水に流してしまう僕ら日本人。恐らくすべての事象は、それが事故であれ事件であれ、僕らには、一つの「自然」でしかないのだろう。

吉本さんではないが、こういった姿勢は、ある意味アジア的とも云え、良い部分でもあるが、やがて長い年月を経て、この「アジア的段階」を過ぎ西欧化に向かうのだろうけれども、近代化を受け入れたからには、好いとこどりは出来ないので、ここは意識して「覚えている」ということを内面化しなければならないのだろう。現状では、果たして僕らに出来るのか疑心暗鬼にもなるが、ここはやりきらないと後がない。
 
お仕舞に、達身寺で特筆すべきことがもう一点。それは、上の画像 ↑ の様な「達身寺様式」  と呼ばれるぽっちゃりお腹がこの寺に残る仏像の特徴です。これが何処から来たものなのか知る由もありません。今後時間を掛けて掘って行きたいと思います。

宗教。終わらないテーマです。次回は、オーム真理教を中心とした話題に触れなければと思います。

では、では。