お大師祭 |
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四月二十一日(毎年この日と決まっています)に、僕の村にある、「茶堂(放光院)」のお大師祭がありました。今年は当番だったこともあり、前日の飾り付けから続けての奉仕です。 メインイベントは、修験道の出で立ちの護摩師が、僕ら当番がが各家庭に配った(1本¥300)檜の札に「無病息災」「交通安全」等と筆書きしたものを火にくべて祈祷し、厄払いをするという古式ゆかしい行事です。 |
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夜久野茶堂縁起 朝来郡山東町金浦 西国観音霊場の第27番:書写山円教寺からは播但線沿いの 但馬路を和田山に抜けて第28番:成相山成相寺へ至る巡礼道 「なりあい道」が通っていた茶堂は”夜久野八十八ヶ所石仏巡りの起点ともなり、夜久野ヶ原丘陵の黒土の台地に「石仏めぐり 」と朱記された案内標識が野や畑地 ・田倉山への登山コースに立てられています。 寛政年間(1789-1801)信州稲荷山の人で武士の出であったと云われる 一道貞心禅師が、 諸国巡歴の途中・夜久野ヶ原を通りかかり、茅ススキが生い茂り・狐狼が住み、火山灰や溶岩の荒野は水に乏しく、旅人が難渋するのを知り、田倉山長者ヶ谷より流れる水脈を辿り・この地に庵を結んで旅の便を図り、夜久野原を旅する人々の飢えを救うため、湯茶の接待をしようと発意したのが始まりであると伝えられます。 丹波・但馬の境界にあり府県道63号の道を隔てて但馬の山東町に属するが、現福知山市夜久野町民にとって我が里の寺としての意識が強く親しまれ、古くより伝わる春秋2回の茶道「大師まつり」の縁日では賑わうといいます。現堂宇:放光院は昭和24年 (1949)直見西垣の高源寺が廃寺となり、此処に移築されたもので、同寺の本尊:不動明王と弘法大師像を祀られているが、本来は一道貞心開基の禅宗寺院に属しています。 (現地 茶堂案内板 参照) |
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茶堂(放光院) |
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夜久野町は、現在お隣の京都府は福知山市にある町で、兵庫との県境にあります。茶堂は兵庫県朝来市山東町金浦にありますが、昔は現在の様な行政区画ではなかったので、 夜久野町の町民も大変熱心に参拝し、お大師様のお祭りも大いに賑わったと「山東町誌」に記されています。 「大師祭」の準備委員会に参加した際も、山東町の住民は勿論、お隣の福知山市の上夜久野町からも数人の方が委員として参加なさっていました。今の行政区分でない地区での活動が継続しているという事実は、如何にこの寺が地域に深く息づいていたかが窺い知れます。 |
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お大師祭が、こんな風に内容も濃く取り行われているとは、参加するまで全く予想できませんでした。ご近所の方々が口々に言うのは、昔は、学校が半ドンになる位地域の楽しみでもあったし、出店も何十店も出たというほど賑わいがあったということです。当然、人口減もあり檀家もい無い寺なので、その運営管理も難しく、上の画像に見られるように、今では、お年寄りしか参拝されないようです。 今年初めて当番になれたことは、本当に幸運だったと思えるほど護摩の行事は、厳かで見事なものでした。ご近所の方々は、昔はもっと賑わいがあったとは言うものの、意識して再興しようとは思っていない様にみえます。それは、どこかで人口減は自然の流れなので抗えない・・・と思っている様でもあります。余所者の僕は、返ってそういった状況を客観的に観ることが出来るので、素直に勿体ないと思うのです。 先日、この地に来て初めて梁瀬自治協議会に代議員として出席しました。これを活かさない手はないと、市長代理や市会議員までも列席する予想外に規模の大きい協議会で、茶堂大司祭を地域の行事として公認し再興するべきと提案してみました。ただ提案するだけだと説得力がないので、思案した挙句、地元住民の方は気が付いていないけれども、如何に茶堂大師祭が立派なものか逗子の五霊神社との対比で訴えという策をとりました。 逗子の五霊神社は、頼朝の父義朝が建立した由緒正しい社殿で、その境内には樹齢600年とも800年とも言われている大銀杏があり、お隣鎌倉の大銀杏は数年前に倒れてしまったので、今では地域で一番古く大きい大銀杏になる。その五霊神社でも、茶堂お大師祭ほど立派な行事は取り行われることはない。地元住民の方々はお気付きないかも知れないが、外からこの地に来た者は、如何に素晴らしいものかが分かる。よって、地域の財産として今以上に盛り上げていって欲しい・・・・と提案してみました。 |
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源義朝 |
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意外にも、協議会全体の反応は良く、僕の地域の方ではない方からも「大賛成です!」というお褒めのお言葉まで頂き、議長他事務局長までも「大変前向きなご意見ありがとうございます」と言った流れになりました。後日、ご近所の方からも「先日の自治協での発言、とても評判がよく、来年は予算が付けられるかもしれない」ということでした。でも、本当に掛け値なしでお大師様での行事は立派なもので、どこに出しても恥ずかしくないのもでした。新聞等の取材がないことが、とても残念に思ったくらいです。来年は、その辺も含めしっかり広報をしたいと思います。 今、地方は、止まらない東京一極集中の為と、これも止まらない人口減で空洞化し疲弊し続けています。地域住民の多くは、いい職のない地元に自分の子らが留まることを気が引けて口に出せずにいます。もちろん、本音は一緒に生活を共にしたいに決まっていわけです。でも、どこかで「それは叶わぬこと」と理解し、その思いを心の深いところに押し込んで蓋をしているように僕には感じます。 このことは、当然ながら今地元に残る人たちの勢ではありません。時代の流れと言ったらいいのでしょうか。誰の勢でもない訳です。ところが、地域に残った人たちは、どこか自責の念に駆られているようにも見えます。そういった地域に残るとても貴重な文化や風俗を、なにか時代遅れの”劣ったもの”と卑下して、徐々にそういった古層から離れて行こうといった無意識が働いているようにみえます。このことは、よそから来た者にとってとても残念に思えるのです。もっと自信をもって下さい!と発破を掛けたいわけです。 このことは多分、余所者が担わなければならないことの様に思えます。つまり消えかかろうとしている地域のアイデンティティの源の様なものが、いかに重要なのかを地域に代わって”語り”伝えてゆく役割です。その理由は、いわゆる”余所者”には東京と地域を相対化出来る立場をもてるからです。これは地元に残った住民の方には担うことの出来ない領域です。僕自身は、そんな風に考えています。 来年の「茶堂大師祭」が、今から楽しみです。 |
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