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このところ「吉本隆明183」と、藻谷浩介さんの「デフレの正体その後」(youtubu)を交互に聴いている。仕事をしながらなので一日5~6時間以上になる。 そこで、新たに気付いたことがある。それは、吉本さんが夏目の小説を地で行っているといういうこと。つまり、親友の奥さん(或は恋人)を自責の念をもちつつも、その友人から奪って結婚してしまうという、夏目の生涯を通してのテーマというか、象徴的な「型」を、吉本さん自身が現実に実行に移しているということだ。 以前は、意外に情熱家だったんだな~位で、気にも留めなかったが、吉本さんの講演を聞き、夏目の一番好きな作品が「門」ということを聞いて読んでみた。その内容はというと、まるで小津安二郎の世界なのだ。僕は、今でも「吾輩は猫である」が一番好きだが「門」素晴らしいです。全然古くないどころか、村上春樹もびっくりというくらい比喩が好いのだ。 ・・・・その時計は最初は幾つも続けざまに打った。それが過ぎると、びんとただ一つ鳴った。その濁った音が篲星の尾のようにほうと宗助の耳朶にしばらく響いていた。(「門」より) |
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谷根千の路地..........「イツカノドコカ」より |
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もしかして・・・・・吉本さんは、病理的に夏目の心の闇を体現することで、全き理解をするという断ち切れない幻想をもってしまったのでは。。この感情を打ち消すことは難しいほど、夏目のストーリーは、吉本さんの生き様そのものなのだ。 そう、吉本さんの奥方は、1960年当時、同人誌「試行」の創始者の一人谷川雁の元奥方。そして、谷川は、一緒に60年安保を闘い、そして共に新しい「詩」を志向した同志。 吉本さんは、夏目の作中にある主人公の苦悩を己の苦悩として生きてみたかったのだろうか。人に惚れ込むとは、こういうことを言うのだろうか。あまりに夏目のもつ闇が自分と重なるので、、小説を読み進むうちに、現実と虚構を溶解し、浸潤することで自己をより強く確認出来るのではという誘惑に駆られたのだろうか。単なる偶然とは、とても思えない。 |
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そういえば、僕がこのhpを始めてアップしたころ(18年も前)自分のプロフィールを紹介するコーナーを設置し、そこに、好きな作家「夏目漱石」と記載したのを思い出した。当時、吉本さんの夏目談話は読んではいなかったので、吉本さんが、ここまで夏目に重なっていたとは想像だにしなかった。 そして、小津安二郎と重なってしまったので TSUTAYA でDVD『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年制作)を借りてみた。無声映画だが、笑いと涙で溢れている傑作だ。僕が生まれる18年前の邦画だが、僕の小学校当時と殆ど変っていない。夏目の「門」が1910年作なので、遡ること20年余り。激動の時代といえば、その通りなのだが、四捨五入すると然程人心は変わっていない。 「門」の文体は旧いのだが、古文書を読んでいる勢か、「日は懊悩と困憊の裡に傾むいた」といった表現には驚かないし何ら違和感なく読み進める。 |
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吉本さんは、人のパーソナリティーを決定づけるのは、特に病理を抱え込んでしまうのは、乳胎児期の母親の置かれた心理的環境と、思春期の両親の性的関係の有り様(倫理性等)によると繰り返し述べている。その意味で、夏目の出自や、三島由紀夫や太宰治などの出自も同じ様なダメージを深層に刻み込み、彼らはその疵を癒し乗越えるために小説を書き続けるしかなかったと述べている。そして、吉本さん自身も程度の差はあるものの、同じ様な乳胎児・乳幼児期を過ごしたと吐露している(夏目や太宰ほどきつくはなかったと思うが)。 こうしてみると、人というのは悲しいというか、切ないというか厳しい存在だな~と感じざるを得ない。そして、犬や猫に聞いてみたくなる「君らは養子に出されたり、生れ落ちて直ぐ母親から離れて育っていないのか」と。そして、母親のお腹にいた頃、母犬や母猫が飢えに苦しんだりしなかったのかと。もしかすると、犬や猫も僕らが気付かないだけで大きく傷ついているのかも知れない。以前、大工牧野が言っていた、阪神淡路大震災の時、現地では人間ばかりでなく犬も夢遊病者の様に、茫然とふらふら町を彷徨していたと。 |
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人は誰しも「生まれてはみたけれど。。」と唱えながら生き永らえて行く存在なのだろう。それは、自分の意志で望むべき時空と誕生を決定できないためだ。これは如何ともし難い。 事後承諾…それが人生なのだろう。 以前、吉本さんの講演で、司会者の「次に生まれて来るとしたら、どんな風に生まれてみたいですか?」という質問に、吉本さんは「勘弁して欲しい」(笑)ときっぱり言ってのけて会場を凍りつかせたことがあった。真意で重たい言葉だな~と思った。 ・・・・・と、ここで言葉を失う;; |
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漱石に話を戻そう。 「吾輩は猫である」は、吉本さんによると、夏目が被害妄想や幻聴などが酷い時に書かれた小説で、それは夏目の奥さんが「漱石の思い出」というエッセイで述べているということからも察せられるということ。実際、この時期様々な人との軋轢があったようなのだが、超越的に優秀な漱石は、自分の被害妄想や疑念を、まるで猫が回想しているかの様に小説化することで自分をコントロールし、狂気と歩調を合わせる術を会得していたというから凄い。奥さんも大変だったろうな~と気の毒に思うが仕方がないかな。 その漱石の理想とする女性像が、「門」に出てくる主人公の奥方御米と吉本さんは指摘している。イメージは、丁度「生まれてはみたけれど」の主人公の奥方の様なタイプだと思う。物静かで口数が少なく、物腰が柔らかで芯の強い母性的な感じ・・・・分かり易く言うと上野千鶴子辺りに目の敵にされるような;;男にとって都合のいいタイプの女性といえる。僕も一度会ってみたくなる女性かな。。 |
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谷根千 |
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さて、漱石は何故、三角関係という舞台を設定しなければならなかったのか・・・・・・。 吉本さんに言わせると、それは、漱石が近代化の中で西洋への憧憬と畏怖を持つ自分と、前近代の自然とともに生きて来た日本を深く愛する自分が、女性を西洋のメタファーとして設定して、そこでの愛憎交えて引き裂かれる自己をドラマとして展開するしかどうしようもなかった・・・・・ということ。二人の男が奪い合う女性は正に西洋のメタファーなんだと述べている。 僕は以前から男女の関係が成り立つには、二人だけの関係では十分ではなく、つまり対幻想のことだが、恋愛感情が惹起して発展するには鼎幻想、つまり特定の一人を挟んでの三人が関係しなければならないと考えてきた。今回漱石の小説の舞台設定が、三角関係を一つの雛形として定番化したという吉本さんの指摘を受け、恋愛とは「鼎幻想」だとした自分の発想は、そうずれていなかったのではと自信を深めた。 |
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小林秀雄 長谷川康子 中原中也 |
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そして、漱石の小説の雛形を実際に移してしまった三人が、云わずと知れた小林秀雄・長谷川康子・中原中也になる。 小林は東京帝大で仏文を、そして、中也はフランスの詩人ランボーに耽溺していることをすれば、漱石同様、西洋と東洋に引き裂かれた自我を、この二人の親友は、康子を仲介して統合を図ったのだろうか・・・・・・・。 当世きってのインテリ小林と、神童と呼ばれたものの中学で文学に目覚め脱線してしまった中也とは、西洋?康子からの翻弄のされ方が全く違っていたという。このことは、長谷川康子を主人公にして映画を撮ったことのある知己から伺ったことがある。 康子は、魔性の女というか、無意識が荒れているというか、自分に関心を寄せる男が、どの程度の深さと本気度で自分を追いかけるのかをもって自己確認するような、ある意味疎外されたパーソナリティーをもった女で、交際中の中也の前で、他の男に関心を寄せることを隠さず、というか意図してそう振舞い、中也の嫉妬や混乱を弄ぶことで自分の魅力を確認するというようなことを度々繰り返していたそうな。 帝大出ではない中也が、最もコンプレックスをもつ相手が、自分を一番評価し理解する親友の小林であることを充分知った上で、敢えて小林を選びその下へ行ったという事実は、二人の男を殺したも同然。もう相当酷い胎児期、乳幼児期をもったんだろうな~と気の毒に思うが、中也に生まれなくて良かったとも思う。 小林は、まったく中也とは違った対応をしたというから流石インテリだ。康子の自己確認としての振る舞いを見抜いていたのかの様に、柳に風というか、どこ吹く風といった呈で己の内面を全く外から悟られないように振舞い、そしてある日、康子と中也の前から忽然と姿を隠したというから凄い。 |
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今ウィキペディアで調べたところ、長谷川康子は<1911年6月、父親の死去とともに母親とも別居、祖母に育てられる。>とあるので、当時7歳。吉本さんの指摘にある乳幼児期に、相当キツイ母親との関係があったことが想像される。でも、1993年4月、鎌倉の老人ホームで死去。88歳・・・・とあるのをみて何故か安堵する。それは、鎌倉が中也が亡くなった地だからだ。 中也は、雪の下清川病院で絶望の中亡くなっている。この清川病院の副院長が女医さんで、僕の修業中博古堂の寮の隣に住いがあり(博古堂とは親戚関係)ちょくちょく見かけた。中也好きの同僚は「清川病院には冷遇される中死んだんだ」と恨めしく話していたことを思い出す。 中也は、僕の入門した博古堂の社長の邸宅があった雪の下の寿福寺境内に住み、谷戸にあったこの寺の洞窟に向け虚しく空気銃を打ち続けていたという話があるが、その引き裂かれ方というか奈落というか、凄しいものがあったろうと想像でき、やっぱり中也に生まれなくてよかったとここでも思う。 案外、康子を生涯で一番愛していたのは中也だったのかも知れない。。というか、康子は自分を一番深く愛してくれた男、それは中也だと気付いていたのだろう。 それにしても、小林秀雄は格好いい爺さんだった。今では実際に口をきいたことが嘘の様です(小林秀雄←ご覧あれ)。 |
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今回改めて漱石の「門」を読み、漱石自身の心象の観察は勿論、人間一般の観察の深さは驚くべきで、漱石が百年に一度という類まれな作家だと再認識した。 人は、様々なハンディーを持って生まれてくる。そして人は、どの国の、どの家庭の、どの親に生まれるかを選択することは出来ない。その宿命を丸ごと引き受けて、背負わされた疵を表現に置き換えることで昇華した漱石は、やはり偉大だ。吉本さんが、その漱石が示した「型」をなぞってしまったことは、本意ではなかったとしても納得してしまう。 そして、小津安二郎を評価する欧米の方々が多いということは、きっと漱石の文学も充分理解出来ると思えるので、いつか日本の古典として世界の多くの人々に読んで頂きたいと願うところです。日本語が読める方々は、スマホやタブレット端末があると「青空文庫」(ボランティアの方々が作成した、日本国内において著作権が消滅した文学作品を収集・公開しているインターネット上の電子図書館)から無料でダウンロードして読むことが出来ます。その意味では良い時代になりました。 啓蟄も過ぎ、ご近所の庭先にオオイヌノフグリを見つけました。もうしばらく、そう彼岸過迄春を待つこととしましょう。 では、では。 |