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四月一日と書いて「わたぬき」と読むそうです。それは、旧暦・4月に綿を収穫していたことが由来で、「四月一日に綿を抜く」から「わたぬき」となったそうです。「四月一日」という苗字の方も実際にいらっしゃるそうで、ほんとうに日本人は言葉遊びが好きなようで、何だか落し噺のようですが、決してエイプリルフールの嘘ではありません。


このページ「Today's image」 は云わば「小学生でも分かる言葉で・・・」が一応コンセプトなんですが、時々脱線して理屈っぽい地が出ます;;そして、分かり易さを気にするあまり「玉響(たまゆら)」など、普段滅多に使うことのない美しい日本語を使うこともありません。でも、既に使われることのなくなって久しい、旧いけれども美しい響きの日本語が実はたくさんあります。

web という媒体は、紙媒体と違ってじっくりと読み込むという姿勢には馴染みません。それは、モニター画面を通して文字を読むということが、紙媒体で読むことに比べ眼が疲れるという身体的な問題があるのかも知れません。
紙媒体より、web で文字を読むほうが圧倒的に多い状況ですが、これは!という文面は、今でもプリントアウトして紙媒体に置き換えて読んでいる。これは紙媒体の方が馴染があるというより、モニターやタブレット端末に比べ軽くて持ち運びが容易だったり、保管が楽ということが大きいと思う。なので、出版界の厳しさは相変わらずだが、本が電子書籍に取って代わられなくなるということは先ずないだろう。

ただし、タブレット端末が紙並に薄く軽くなったならば事情は違ってくると思う。

80年代初め、新人類の旗手浅田彰が、当時レコードや録音テープに代わって登場したCDが「本」に換ることはないだろうと言っていた。それは、目次から本文に辿る使い勝手(頭出しともいえる)が「本」は圧倒的に優れているということを挙げていた。加えて逆引きともいえる索引も「本」は優れている。

僕自身は、マスコミが伝えるほど活字離れが若い世代で進んでいるとは思わない。依然として本好きな若い世代も昔と変わらずに多いように見える。ただ、スマホで小さな液晶画面に浮かぶ文字を読むことがここまで多くなると、今までと違った感性や表現が新たに生まれるだろうということは確かなように思える。
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和紙に筆と墨、そして版で刷られた文字などを読んでいた時代から、凸版で刷られた文字を読む時代に移った時、やはりものを見る感覚や、そこから表出する表現は違った筈だ。同じ意味でスマホやモニターで文字を見ることで培われる感性は、紙媒体のそれとは違うのが自然だ。とはいうものの基本的な感受性は、文字が生まれた当初と今とでは、然程変わってはいないのでは。。テクノロジーがあまり発達していなかった頃の人の方が、感受性は豊かだったとか言いたくなりそうだが、その指摘も何となく胡散臭い。


僕らの若い頃と比べてみても、今の若い人達の方がよほど活字を有効に使っている。僕らは、年賀状を始めとして、暑中見舞いと、欠かさず時節の挨拶状は書いた方だ。けれども、量的には今の世代には敵わない。SNS というツールを使い「今何を食ったか」から「いい風呂だった」まで連絡し合っていて、古い世代からは「病んでいる」とまで揶揄される。

今の若い世代が、傷付くことを恐れて、あまり深く関わることを避ける傾向にあるとはよく聞く。社会がここまで複雑になると、人は仕事を含め多種多様な「場」に顔を出し関係を作る。すべての空間で深い関係性を志向したら身が持たない。また、A という場で是でも、B という場では非ということになることも多い。なので必死に空気を読む。大変だ。

多分、優秀な若い連中は、その辺をきちっと棲み分けているのだと思う。さらっと流す空間、そしてきちっと深く掘る空間を咄嗟に判断しているのだろう。

ご近所
この暖かさで、こちらでも桜は満開だ。数日前、桜の「さ」の字もないご近所で、春を告げる梅の香に誘われてスケッチに出た。ところがどうやら、今年花粉症デビューらしいのだ。。スケッチしていても気が気でない。主治医に勧められて、塩入のお茶で鼻腔と喉をうがいして花粉を流すとちょっぴり良くなった気がするが、基本気休め。然程改善されない。

結局、梅の小枝をこっそり頂いて室内で観察。梅の蕾の付け根がかなり複雑な構造をしていることに今更驚かされた。それと、花の萼の曲線もイメージを超えて微妙なラインで美しい。
























いずれにしても、そのフォルムは整合性があって云わば機能美と呼べそうだ。

ただ、これらの花々を意匠として起こす場合、精緻に描写したからといって梅の香が漂ってくる訳ではなく、そこは全く次元の違ったものに置き換えなければならない。光琳や宗達の梅は、凡そ精緻と対極のところにある。けれども、その薫は鮮やかで簡略化された花や蕾もリアルに印象付けられる。

平面にスケッチすることは、もともと三次元四次元のものを、無理をして二次元の平面にイリュージョンを使って落とし込んでいるので、精緻さがそのままリアルさにはならない。なので意匠とは、そういった条件を組み込んで表現に置き換えることをいうのだろう。

白梅図.........光琳
もう反則では・・・というくらい簡略化された光琳の白梅図 ↑ だが紛れもなく見事な白梅だ。カスレなどもハプニング(=偶然性)として逆算されて描かれている。女遊びが酷く、奥方から代官所に訴えられていても止めなかったことも反則か?

そう無関係なのだ、女遊びと表現のレベルは位相がちがうのだ(羨;;)

 











コブシと桜
今年は、花粉症が疑われるので花見と洒落込めなかったが、町まで買い物に出掛けるだけで四周すべて桜で溢れているので充分満喫できる。川の堤や、神社の境内の染井吉野、そして山桜と、淡いピンクから濃い桃色まで色調も枝振りも含めた姿も多種多様。



そして、今週の月曜日は入学式。朝五時起きで三宮の神戸国際会館へ。一番最後に出席した入学式の記憶は既にない。なのでちょっと新鮮。長く伸びた列の最後に並び暫く進んだところで「何気に並んでますけど、この列入学式ですよね。。」と横の女学生に確認。「ええ、そうです!」と明るい返事。座席に着くと周りは皆息子より若そうだ。でも、この歳で学ぼうとする姿勢はリスペクトに値するという自負からか、のんびりと式の進行を見守った。そう、君が代も厳粛に斉唱しました(サッカーの国際試合でも歌ったことないのに;;)。


明日はキャンパスでオリエンテーリング。とにかく早く授業に出たくて堪らない。但馬のフィールドワークも楽しみだ。

地域の疲弊は、毎日見る光景なので何とか振興を図りたいが相当難しい。

本音を言うと、将来像は、限界集落化し高齢者に偏った年齢構成に沿った社会構成をきちっと描き、その上で経済を始めとした地域の振興策を提案することが現実的だと思う。全国平均の標準的な人口構成を将来像として描くと頓珍漢なロスが大きく出る。取り敢えず、但馬の現状を概括し今後に備えたいと思っている。

いよいよ yahoo! で競り落としたホイールに夏用タイヤを履き替え、新しい季節の準備は万端だ。気合入ってます!