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2009 --2014
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個展用の乾漆の制作と並行して特注の厨子も手掛けている。仕事とは、そもそもそういうものなのだが、基本あれもこれも手掛けなければならない。

Mushikui-Zushi は、ベーシックなコンセプトが決まっているのですが、特注ともなると与えられた空間にどう納めて行くか思案する。先ずは、トリマーで彫る二次元的なバランスをとり、続いて三次元的なバランスを考える。30年ほど前に話題になったことのあるG、つまり重心のことだが、二次元の重心がどこにあるのか、そして三次元の重心を何処に置くかを考えながら作業を進める。

三次元のバランスとは、凹の総量の様なもので、全体の彫の深さが、深からず浅からず、のべで拮抗しているように気を使う。もちろん二次元的な面積の総量も関係する。

分かり易く言うと、削られた木屑の総量が、右の扉と左の扉が同じ値になるようにする・・・と言った塩梅だ。本当にそうなっているか、未だ計ったことがないので確かめた訳ではないけれども、気持ちとしてはそういった感覚で作業をしている。
 
図案をどうするか、コンセプトは同じなので全く新しい作品を考案するのとは違うが、でも毎回緊張するので、どうしても後回しにしたがる自分がいる。

始めてしまえば、どうってことなく進んでゆくのですが、恐らく相当緊張するというか気合が入っているのだと思う。

毎回同じ心境になるのは、成長が見られないのか、あるいは毎回清新な気持ちに立ち返って作品と向き合っているのか・・・・両方か。。何れにしてもすべてをリセットして新たな作品と向き合っていることは確かのようだ。


彫に関して言うと、常に木地の厚みと彫の深さのバランスを意識して作業している。深すぎると「痛い」感じになり、迫力は出るが下品になる。浅いと生命感が乏しく貧相になる。この塩梅をみるのがプロかな

Mushikui-ju
初期の作品と比べると、深みが増してきたように感じる。逆に言うとスリリングな偶然性は少ないように思う。その分安定感が増しているが、もうちょっと不真面目になった方が良いかも知れない。

このデザインは、シロアリ君の虫食い痕から着想している訳だが、当時悪友からもらった小学校の椅子を改造して作った定盤には、未だに当時のシロアリ君?が棲んでいて現在進行形で床に木屑をのこしている。しぶとい;;。

デザインは自律的なので、今ではシロアリの虫食い痕から大分遠くに離れてきたように思う。ここ最近、デザインの盗用で連日世間を賑わしているが、この Mushikui シリーズもシロアリ君から訴訟を起こされないくらいに進化しているように思う。始めた頃は、行き当たりばったりで、ほぼ即興だったので、破綻もあった。それはそれで面白いのだが。。

思い返すと、面白いデザインは、けっこう破綻から生まれているような気がする。それは、意図しない偶然が関与し、予想しなかった出来事に遭遇することから来ているのだろう。
Mushikui の道具は、トリマーというミゾ彫用の大工道具だが、初代は大工牧野からもらった優れものだったが、真夏の炎天下で作業を続けたのがたたってモーターが焼け、お陀仏と相成った。今ので三代目となる。

「作家は処女作に向かって成熟する」とは、今では教科書にも載らない亀井勝一郎の言葉だそうだが、正に至言。僕自身も、この言葉をなぞっているように思う。
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やや大振り
僕は鎌倉彫出身だからか、何かを彫ったり削ったりする作業が肌に合っているというか気持ちがいい。もともと身体に負荷がかかる仕事が好きだ。思い返すと若い頃にやったアルバイトで肉体労働(土方やヘドロすくい等)今で言ったら三Kに入る汗をかく仕事が好きだった。大学も建築学科を目指したが、本当は、土木に行きたかった。ただ見た目が凄味がなく軟な感じなので現場監督になっても、説得力ないな~と無意識に思っていて路線を変えた。今でも汗をかく肉体労働は達成感があって好きだ。仕事をしたぞ~という感じが堪らない。

作業場が狭いということもあるのだが、このところ大作を手掛けていない。関東から離れてしまったということもあるかも知れない。この地の人は、みな本当に真面目というか堅いというか、宅急便などちょっとでも規定サイズを越すとはねられる。その都度メジャーで測って料金表を確かめる。当たり前といえばそれまでだが、関東ではそう言ったことは滅多になかった。もう少し落ち着いたら大作も手掛けてみたい。
 
 ちょこっとブレイク。

先日、前区長が肩の腱が切れて、もう二か月近く入院しているので、入院先のたつの市までお見舞いに行った。車で1時間半ほどか。暇で暇で退屈して本を読むしかないということなのでAmazon で「100万回生きたねこ (講談社の創作絵本)」、と「野火」を選んだものの、あまりにも重い内容だったので(僕は電子書籍で読みました)結局、藻谷浩介さんの「里山資本主義」を地元の本屋さんで購入。なかなか好いセレクションだと思うのですが。。

野火は、お隣の町の豊岡劇場で塚本晋也監督の邦画も併せて観た。評判のいい映画だったのだが、僕自身は小説の方が圧倒的に素晴らしいと思った。映画だと、どうしてもレイテ島での餓死状態で彷徨する日本兵の演者が、皆ふくよかで肥満にみえて臨場感が出ないのだ。生存率3%といわれた激戦区で、ほとんどが餓死したと思われる凄惨な戦場を設定すると、映像に出てくる日本兵が皆肥満体にみえて白けてしまう。恐らく骨皮筋衛門状態でなければならないはず。

それと映画を観終った後、「個」しか残らない。小説の方は、「個」と「全体」がイメージにあがって来る。そして人肉を食む極限状態を、超越した存在の「神」に語らせる小説の手法は、非人間性を神を使って浄化し、俗から聖へと転倒させるのに成功しているが、映画の方は、この部分を敢えて削除したと監督自らがラジオで語っているのを聴いたが、その点も残念に思った。自分の手に負えないと思った、という監督の言葉は正直で好感が持てたが、ここを映像で表現出来たら深みが全く違っていたと思う。
 
いい大人にと思ったが、 ふっと浮かんだのが「100万回生きたねこ」だったので、元区長が小学校の校長だったのを知ってはいたけれど、敢えて贈ってみた。でも、今日地区の防災訓練の後にあった食事会の時、元区長の奥さんに「私も佐野洋子さんは大好きで、いろいろ読んだ」と興奮を抑えられない風だったのでOKかなと。。


この佐野洋子さん、谷川俊太郎さんの奥さんだったということは、みなさんご存じでしょうか。元奥さんと言った方がいいのか・・・・三度も結婚なさっているので凄いな~とおもいきや、高橋源一郎は五度も結婚しているので上には上がいると。。池田万寿夫にも感じたことですが、女性をエネルギーに、というかエネルギーに換えて創作するという芸術家は結構います。

分かる気がしますが、いちいち法に定めた基準に合わせる必要もないように思うのですが、つまり法より上位に男女の関係がある・・・と解釈なさらなかったのでしょうか、そこが解せません。結婚届が、お二方の愛の保証書になるといったことを考えるような方々とは思えないので、そこには”深くて暗い川がある”のでしょう

谷川俊太郎といえば、塗師赤木 明登君が、未だ家庭画報の編集をしていたころの企画で、面白そうな子を毎月一人選んで写真を一枚撮り、それに谷川さんが詩を付けるというのがあり、次男が「どっか」という詩を頂いたといった名誉があった。



「どっか」

ここにいるのあきたよ
どっかいきたいよ
みちにこおりがはっててね
わるものがマフラーしてるところ
わるものはね
ひかるネクタイしめている
でもね すべってころぶこともある
わるものになるには
たかいはしごにのぼれなきゃだめ
えいごもできなきゃだめ
たぶんねこもすこしけっとばす
ぼくはいっぺんわるものになる
そのあとでいいひとになる

詩:谷川俊太郎

 
 本物の詩人ってすげ~な~と思った。というのも、次男は、この詩のフレーズ通りのパーソナリティーの持ち主なのだ。たった一枚の写真から、この詩を連想し言葉にしてしまうのだから、詩人は正しく言葉の魔術師なのだろう。





 
上の画像 ↑ 黄粉餅ではありません。布着せのあと糊ウルシに木粉を蒔いたところです。この手法は、伝統的なものなのかどうかは分からない。もう大分前からこの技法でやっている。大分手の内に入ってきているように感じる。



本日(9/13)は、厨子の蝶番のなおしだ。ここ数年京都の金具屋さんから仕入れているが、厚みは申し分ないのだが、エッジが立っているのがどうもしっくりこないので毎回グラインダーとヤスリ、そして砥石で傾斜を付けたり角丸にしたりと、手を掛けて自分の気に入った形状に調整している。ここまでする必要もないような気もするのだが・・・・。

この後、会津の厨子屋さんの本社で黒の艶消しに焼き付け塗装して頂く。
金属という材質も好きだ。硬質な輝きは、理屈抜きで人を魅了する。「色」とも、またひと味違った次元の質で、それが何故僕らを惹きつけるのか不思議と言えば不思議だ。金属を精製するまでの途轍もなく長い年月と苦難の堆積が、どこか無意識の層に刷り込まれているのだろうか。。











扉裏..........(惠+薬)
今回の厨子、扉の寸法と形状が、定番のものと大分違うのでどうなるかな~と、ちょっと心配しましたが、案外スムースに図案も出来上がり作業も思い通りに進みました。定番を凌ぐ仕上がりかも知れません。普段は、扉を開いた状態で、中には薬師如来が祀られるということで、扉の裏に元々の持ち主(依頼主のお母様)のお名前の一部「惠」と薬師如来の「薬」を殷墟文字であしらいました。ご実家が薬問屋だったということも「薬」の字には含みます。

無事納品も済みホッと一息つく暇もなく、今日は山陰ジオパーク主催で、アジア地域での各ジオパークのプレゼンがあり、院生はそのボランティアに駆り出された。発表は、全て英語なので勉強にもなり、また各国々でそのスタンスも様々。時間もマイペースな東南アジアの方々にタイムキーパーも冷や汗;;日本人が真面目すぎ?僕は、部屋のライティングの係だったので、チーフや、タイムキーパーのフォローに回りいい経験になった。
さて、乾漆も大分要領が掴めて来た。こんな風に徹底して乾漆を手掛けたことは今までなかった。やはり数をこなすことは大きい。いろいろなことがスムースになり、そして新しいアイデアも自然と生まれてくる。

一から形を生み出し、最後の工程まで徹底して自分一人で関わる乾漆は、フォルムの微妙なラインなど細かいところまで目が通り、とても充実感があり仕事に納得できる。今回の個展のタイトルは「酒器」だが、他のアイテムも考えてみたくなるが、あまり多くのものに手を出し過ぎるのも悪い癖なので気を付けないと;;;

ということで、すっかり秋めいてきました。地元では稲刈りが始まっています。今日、お隣の村の友人Mさんから電話があり、明日稲刈りが済むが、昨年同様30kg要り様か・・・ということ。もう一年も経ってしまった。未だ去年の米が残っているが、注文した。

あれもこれもこなさなければならない毎日が続いています。

では、では。