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essay +column+
2009 --2016
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  先日、六本木SAVOIR VIVREの店長に、僕の知り合いの若い作り手の方々の小品に関してご意見を伺ってみました。出来たら委託で扱ってもらえたら都市の風を感じることで今後に活かせるのでは・・・といった思いもあったのですが、頂いた返事は、「今一番難しい工芸ジャンル」という丁寧で率直、そして厳しいご指摘でした。同時に都市を中心とした現実は厳しいものだな~と今更ながら再確認しました。

SAVOIR VIVREの店長の感想だけでは偏りが出るかと、現在金沢を始め全国の伝統工芸産地に出向いてご指導なさっている山田節子さんにもご意見を併せて伺ってみました。長年デパートで工芸を扱っていらした方なので、そのコメントは重く、SAVOIR VIVREの店長と同じように厳しい指摘で、僕自身そんな厳しい現実の中で工芸のムーブメントが「非SAVOIR VIVRE的なるもの」=「非装飾的なるもの」=「ミニマルな作風」となり、かつそれが多数派になっている現実と闘ってきたんだと自覚した次第です。
 
腐食部を研ぎなおし防錆剤をコーティングした真鍮板
東京では今「生活工芸」と称して、加飾のない雑貨をあるべき工芸として展開する動きが顕著で、「清貧の美」と称して現代美術作家の村上隆がその牽引役になっているとのことでした。新しく出来るギャラリーも、雑誌の紹介もこの色一色という流れだそうです。

思えば、この傾向は十年ほど前「今の器(ミニマルと装飾)」というタイトルで触れた時から既にみられた流れだったように記憶しています。現代美術の flat 化を提唱してニューヨークから自分の作品を逆輸入するといったマネジメントで成功した村上隆ですが、工芸の世界も同じような手法で flat 化しようとなさっているのかなと感じています。もちろん、工芸をどう演出しようと自由です。

ただ、現代における装飾とは何か…を問い続けてきた僕としては、こういった一見分かりやすい風景が、工芸のポピュリズムにみえてしまいます。「用の美の職人仕事」=「あるべき工芸」という図式が、その背景に見え隠れするからです。いつの時代もこういったプロパガンダとそのムーブメントはあり、大抵それに分かりやすい倫理観をかぶせているのが常です。

縄文時代石偶......日本民芸館収蔵
かつての民芸運動も、職人仕事=無名性=非作家もの…といったコンセプトが際際に演出されていたと思います。結局、作家以上に高額なやり取りと、無名性とは程遠い個人名が先行することで、その理念は破綻しました(僕自身は、柳宗悦も一連の作り手も好きですが…)。
工芸は今、確かに難しい状況にあると思います。それは、大きな状況でいうと僕らの生きている社会が、高度資本主義社会の真っただ中にいるということがあります。具体的には、工芸や手工芸という手作業による職業は、とても生産性が低いので、なかなかペイすることが難しいということを意味します。サービス業が70%を超す今の社会の持つ意味は、近代に入って市場社会が成立した後、所得を得る効率が、一次産業(農林漁業等)より二次産業(製造業等)二次産業より三次産業(金融、サービス業等)と次元が上がるほどよくなることを示しています。所得と幸せ度は必ずしも比例しないのですが、でも僕らは常識的にいってお金がないよりあった方が良いというか安心です。

本当にそうかと問われると微妙です。ただお金で買える幸せもあることはあるのも事実ですが、「清貧の美」などと戦略的にお金儲けが上手い方に言われると、ちょっとムッとします。

仕上がりを待つ乾漆ぐい吞み「Bach」
 工芸を生業とすることが難しいのは事実ですが、手仕事が好きなタイプの人は、どんな時代でも必ずいるので、儲からない業態なのは事実としてもなくなることはないと思います。そして、みんながみんな手をかけると(加飾を入れると)儲からないので flat 化した工芸に向かうしかないと判断するのは違うと思います。そもそも工芸の醍醐味は、どれだけ手を掛けられるかというところにもあったはずです。

明治以降の近代化の中で、人々は効率が儲けを生むことに気付き、省略美が善とされる倫理的土壌が醸成されます。そういった中、加飾は蛇足で饒舌過ぎて品のない表現とされます。特にインテリの中で、侘び寂びは、控えめな表現で出しゃばらず、一歩引いたところで表現を成立させるところが、どこか品のある表現といった観念が広がっていきます。僕に言わせれば只の手抜きだと思うのですが…。

仕上がりを待つ乾漆ぐい吞み「Bach」
 ミニマルがベーシックな世界に生きている僕たちは、どうしてもごてごての日光東照宮の様な装飾美より、どこか抑えた表現の桂離宮の方が品よく見えてしまいます。確かに省略も美ですが、徹底的に描き込むことも美であることを忘れてはなりません。人間は、この両極の表現を併せ持っています。ただ、近代に限って言うと、「労働量」と「美のレベル」を分断させないと、手を掛けていないもの(労働量の少ないもの=ミニマルなもの)に高い価格をつける根拠を失います。このからくりを見逃してはなりません。

東京一極集中の流れは当分続きそうです。このことが工芸にどういった影響を及ぼすのか…。工芸品を売り買いする窓口は、現在のところgalleryが引き受けています。百貨店は、リーマンショックの後、利ざやの少ない工芸品から退却を始めました。なので、いわゆる手作りと言われる日常使いの小物(椀や皿、そして箸等、)を扱う空間はgalleryしかないのですが、首都の地価が高すぎてテナントを借りて営業するには利が少なすぎる業態な訳です。

繰り返して言ってきましたが、一か所で二つの異なる店を重ねて経営すること、つまりテナントとして利を得るビル賃貸業と、同じ場所に重ねて小売りの店を開くといった具合にダブって商いが行われるのが都市での商いの実態です。自社ビルでgalleryを経営できれば負担は半分で済みますが、ビル管理に限定していえばあまり合理的な選択ではない(儲けが少なくて)ということになります。
いずれにしても、東京で工芸品を売ることはとても難しいということになります。ならば負担の少ない新しい流通を作ればいいだけです。実際に、僕が時々利用する手工芸を扱っているサイトに「minne」(ミンネ:https://minne.com/)があります。ショップを構えている訳ではないので、その分価格も低く抑えられていますし、サイトを運営しているGMOという、元々はレンタルサーバー会社に、確か一割の参加料を支払うことでウェブ上に店を出すことができるというシステムになっています。

ここ最近は、かなり付加価値の高い高価な商品もアップされていますが、手頃な価格のものも相変わらず多いように思います。一度寄ってみてください。ピンからキリまでで、きっと気に入ったものが見つかるはずです。手工芸が好きだけれど名の通ったgalleryで扱ってもらう自信がない、という作り手の方は、参加資格は特にないはずですので是非利用してみてはいかがでしょうか。
  
夜久野ロータリー
世の中が複雑化すると、どうしても様々なことを単純化して分かりやすくしたくなります。でも、高等数学を解くより難しい出来事が世の中には巨万とあります。そういったことを全て flat 化することには無理があります。工芸も同じです。分かりにくい工芸も、分かりやすい工芸もいろいろあって良いはずです。そんな当たり前のことが通る社会であって欲しいと思います。
 
削り出し......合鹿椀