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新型コロナ感染症は、ここに来て大分落ち着いてきたが、この冬にまたぶり返すだろう。当分終息はないと思う。そんな中、先日新聞に目を通していたらハッとする記事に出会った。それはコロナ禍が始まったとき小学校をはじめ中学校、高校、そして、大学と学生生活をスタートを切った若者たちにとって様々な制限はあったものの、コロナは日常であり決して怯えて閉じこもって生きていた訳ではないという事実。

彼ら彼女らにとってそういった特殊な状況にあっても充実した人生を志向し、身近な友人をはじめ様々な人間関係も豊かで楽しいものにするために一生懸命。それは、コロナ以前の若者と変わらない姿勢だということ。つまりコロナ禍であるか否かに関わらず、手応えのある毎日を過ごそうとし続けていることに対して、自分としては意外に思えると同時になるほどと納得したりもした。
当たり前といえばそれまでだが、自分自身は、今を「異常な時期」としてこの時期をモラトリアムな”仮設”としての期間と位置付けて来た。言ってみれば、この際コロナ以前の社会には戻れないので、ある程度、先が見通せるまで、言わばモラトリアムな生活を積極的に送ることを善しとしてきた。しかし、この記事を読んでコロナ禍の「今」でなければ表現出来ないことが有るはずなので、今こそ、それを形に留めておくべきではと感じるようになった。

これまで自分のコロナ禍の「今」は過渡的なもので、いわば一時避難の状況だとしてきた。それ故にある程度先が見通せるまで制作も休止して、その間「引き出し」の中身の質と量を増やそうと考えて来たけれど、コロナ禍に収束がないならば、そのような状況こそが「今」であり、その「今」を表現に置き換えることをしなければ、折角の特殊な状況にあってそれを活かすことにならず勿体無いことだと理解するようになって来ている。
確かに今までの制作論でいうと、現在回っている社会に対応して、そこでの表現の現在地を見据えて、社会との作用反作用の中で表現が表出されるとして来た。その意味で作家と社会は、一つの関数の中での変数と考えられる。作家個人は、社会との関わりの中で様々な変容を社会から受け、また社会は、そういった作家を含むの多く人間から変容を受けつつ、その姿を変えてきた。恐らくこの関係性の中にコロナという変数(α)が新たに加わったのが今現在になる。それゆえに変数(α)を加えた関数として表出される表現を「今」出さない方はない。

但し、非コロナ禍で長く生きてきた自分にとって、例え「今」がコロナ禍だからといって、それに対応した表現をすんなりと成立させられるかと言ったら、そう簡単ではない。そもそも今が非対面でのコミュニケーションが基本的なスタンスとなっている故、生な肌感覚の情報も乏しくビビットな感情の抑揚も少ないので、なかなかエネルギーも溜まらないし、何かに感動することも少ないように思う。
一方でスポーツという世界では、サッカーをはじめ様々なスポーツで良いパフォーマンスをみせている選手も多い。彼らにはコロナは足枷になってはいないんだろうか。。それとも選手生命というか、ピークそのものが他の業種に比べ短いのでコロナ云々と言っていられないのかも知れない。そして、条件は同じなので強く上手くなるという志向は具現化し易いように思う。でも、彼らとて戦術や個々のスキルも日進月歩。今までに見たこともない新しい技(表現)を目指して努力しているはずだ。

翻って、自分自身の「今」は年齢も含め、彼らとは同じではない。若い頃の想定としては60歳を過ぎたら悠然と構えて毎日ゆったりとオーダーの仕事をこなす…はずだった。けれども本当先のことは誰にもわからない。コロナ然り、家族然り、仕事先(画廊の閉廊)然り。
実際は、そう呑気なことも言っていられず、ここに来て仕事への構えも少し変化がみえてきた。それは、今までと同じ延長線上での仕事と、それとは全く違った不安定なコロナ禍の漠とした心情を形にした仕事の両方が存在するはず。後から見返してみると奇妙奇天烈な作風に見えるかも知れないけれども、それも史実。大きな喪失を抱え、それと向き合いながら新たな負荷となる加齢とも折り合いを付けつつ生きることのしんどさ。そんな現在地で生まれる作品もあっていいと思えるようになって来た。
多少変な作品でもいい。コロナ禍を醸し出す作品が遺せればと思う。  Home index 

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