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「人新世の『資本論』 」を読んだ。未だざっと目を通した位だが、論旨に驚くような点はない。恐らく僕らの社会が相当劣化してしまったこともあって、この出版不況の中30万部を超すという社会現象が起きているのだと思う。 ただ、著者の斎藤幸平氏がそうであるように、若い世代が格差に対しての素直な「異和」(これ吉本さんの造語です)を口外する状況が、社会の中に準備されつつあるということを知り、その意味で興味深かった。 丁度、僕が10代の終わりの頃、大学浪人をする中で、当時ラジオの深夜放送が黎明期だったこともありパーソナリティーの加藤諦三早大教授の推薦する書籍を貪るようにして読んだ。その中に「マルクス主義と実存主義」に関しての書籍が多くあったように記憶している。 実際、60年代・70年代は「マルクス主義と実存主義」の対比が文壇、そして思想界でも盛んに取り上げられていた時でもあった。 |
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「資本論...... カール・マルクス著」 |
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当時ちゃんと理解して読んでいたかというと☓で、五里霧中という感じで、只々加藤諦三先生の勧める本を兎に角読むということを繰り返していた。 若いということもあって、「難しい」=「読み応えがある」という等式が成立していたのと、今考えると睡眠障害もあって眠れないことも多く、その対処法として「難解な本を読むと眠くなる」といったよく聞く睡眠法として抵抗なく哲学書や思想書に目を通していた。 それと、姉が『死に至る病』(キェルケゴール)とか『意志と表象としての世界』ショウペンハウエルを気狂ったように読み耽っていた影響もあったように思う。 残念ながら加藤諦三先生の勧めた吉本隆明は、超難解でさっぱり理解できませんでした(座右の書になるのに15年程必要でした)。 |
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そして「人新世の『資本論』 」だが、僕らの若い頃になかった視座は、明らかに「地球環境」。60年代も、水俣病を始めとする公害問題が露見し、社会のあちこちで企業相手に訴訟やデモが起きていた。ただ、それは世界規模で地球を保全しないと地球がヤバい....
といった視点ではなく、精々国単位の狭いエリアの特別な出来事位の把握に終始していた。 高度成長期から50~60年経ち、バブルからその崩壊、続いて、リーマンショック、グローバル化、東日本大震災と福島原子力発電所の原子炉の爆発、そして、ここに来て COVID-19 のパンデミックと、地球規模で救済策を考えないと意味をなさなくなっている。その点、著者の言説には異論がない。 ただ、脱資本主義、脱成長を支える理念に、人々の「倫理」を持ち出して超克しようというという点に「?」となる。 彼の言説によると、資本主義は際限なく資源を浪費することと、それを支える機構に、人々に「商品」の購買意欲の無限運動を起こす「人工的希少性=付加価値」をあげている。この根源的機構を穿つのに、人々が資本主義化によって引き起こされた過剰性(欲望)である「新規性」⇒「人工的希少性」⇒「付加価値」を「倫理」で超えなければならないという。 |
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マルクスからエンゲルスへあてた書簡 |
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この資本主義の課題を倫理で超えることの無効さは、嘗ての共産圏や、僕らの資本主義国でも散々繰り返したことではないのか。。 この矛盾を、とても効果的に指摘できる四コマ漫画『サザエさん』の秀逸した作品を紹介したく、全68巻近くある内の50巻程を必死で探したが見つからず、仕方がないので文字で起こします。 サザエさんの家に、ご近所の主婦が数人集まり談笑。話題は食品添加物。 卓上にあげられた食パンが無漂白で「これでなくちゃ!」、「そうよね!」っと、みなで口を合わせる。 でも最後の4コマ目で全員の無意識は「.....でも不味そう」と肩を落として深く溜息を付いて終わる....... というストーリー。 |
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まだある。未だ僕の子どもたちが小さかった頃、我が家はお世話になっているご近所とのお付き合いもあり生協(coop)の会員になっていた。そこで購入する商品、特にお菓子類は、ほとんどがメジャーな製菓会社で人気の「オットット」や「キャラメルコーン」のパクリ。味は80%の出来。もちろん、開発費がかかっていない分価格は安い。安いとはいってもオリジナルの80%程。なので、食べた後の満足感は20%減で、何となく貧乏臭いというかシケた感じが残った。 このことって、一見軽そうだが、実は可成り本質的な問題を持っていて、お菓子という「使用価値」があるとして、ひとは、そのお菓子のもつ「使用価値」だけで自分の味覚という感覚を過剰に深まらないよう「倫理」で抑制できるものなのだろうか.....。「より美味しいもの」を希求するということは、当然「人工的希少性」を追求しなければ生まれない。その意味で欲望を喚起する。 でも、脱成長・脱資本主義の目指すベクトルは、この欲望を本質的に人間を貧しくし地球環境に余計な負荷をかける「非」なるものと考える。果たしてそうだろうか。そして、この疑問にはデジャブがある。そう、60年代に盛んに闘わせたマルクス主義か実存主義かというテーマだ。 |
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2021年、人新世の時代としての解は、「マルクス主義か実存主義か」ではなく、「マルクスと実存」の統合になる。それは「健全なる野心」としての「新規性」を是とし、なおかつ50年前には矛盾した概念だったマルクスのいう「使用価値」だけで回る世界ではなく、「健全なる野心」としての「付加価値」、「差異性」の正当な評価等が議論されるべきだ。 別の言い方をすると、「個≒個性」という自己幻想を肯定しない限り、ひとは精神が枯渇する。そして、これからの社会を担う若い世代に受け入れられない概念は、いくら正しくてもひとは離れてゆく。特にZ世代と呼ばれる10代・20代の若い世代は、ジェンダーギャップに敏感で、 LGBTQへの理解度も高く、それを一つの個性と考えている。 Awesomenessの調査によると、Z世代の3分の1は、人間は皆平等であると強く信じていると回答しています。社会問題に敏感なこの世代にとって、マイノリティであることは何ら問題ではなく、全ての条件において平等であることが求められます。 人種、性別、ジェンダーなど、全て現代社会では平等に受け入れられるべきというのがZ世代の考え方です。(TUNAG HPより) |
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Marx |
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「脱成長」を認めるとして、全ての事象や物象を「使用価値」に謂わばフラット化することは「いつか来た道」を辿るのではないか。この辺のことについては、未だ斉藤氏の論述は深められていない。 資本主義社会では、「商品価値」の生産が環境に要らない負荷をかける..... というマルクスの資本論に沿った指摘までは承知できるとして、肝は「差異」を生み出す人間の過剰性を、何処まで「資本主義的包摂」でない方法で許容できるかになる。 アート(芸術)に関わってきた自分にとって「使用価値」で回る、マルクスの言う「必然の国」のイメージは、崩壊した共産国でしかない。そして、マルクスは、「必然の国」が確立した基盤の上に、芸術や文化、スポーツ芸能という「自由の国」が育つという順番になると『資本論』で述べている。 |
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Engels |
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『良い自由と悪い自由』の項で斉藤氏が触れている様に、無節操に商品価値を生み出すことで、際限なく成長は続くとする資本主義の幻想は、悪い自由とされる。そして、本来あるべき世界(地球環境を含めた)を「使用価値」を満たす商品の生産へ、つまりマルクスの言う「必然の国」を持続可能な社会に向けての「自己抑制」を自発的に行い縮小していくべきであると。 たった一冊の新書に盛り込める言説には限界がある。そのことは、著者が一番よく承知しているはず。その意味で『人新世の「資本論」』の評価すべき骨子は、大きく二つ。一つは、地球上の資源を無限に使い成長を続けようとする資本主義の「成長」という幻想からの脱却(脱成長)。 そして、もう一つは、脱成長した後に創生する持続可能な社会(世界)に移行するには、我々人間が際限のない消費へと駆り立てるシステムを |
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吉本隆明とミシェル・フーコー : 対談「世界の認識の方法」 |
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『人新世の「資本論」』を読んでみて、最初に想起されたフレーズは「意志」だった。つまり、自己抑制による脱成長にしても新たなコモンの創生にしても、それを実現するのはひとびとの「意志」によってなされるとする思想。 この思想にはデジャブ感がある。そう吉本隆明とミシェル・フーコーとの対談「世界認識の方法」。ここで言っている吉本さんの論旨は、「マルクス主義は終わったがマルクスは終わっていない」ということ。つまり、「歴史に人間が関与できる」という大きなテーマになる。別の言い方をすると、人間の「意志」によって社会なり世界を変えられるという「幻想」の重要性は、未解決のまま未だ残っているという指摘になる。 この指摘によってフーコーの来日の目的は、吉本隆明に会い、その思想を深めることと美少年を買うことの二点になったと言われている。 「世界認識の方法」は、kindleで読めるので、是非一度目を通していただきたい著作です。ただし、この著作の主旨を理解するのは難しく、僕の評価する社会学者の宮台真司ですら、この著作を誤読し、吉本さんはトンンチンカンで議論がかみ合っていないと述べています。これは、フーコーという20世紀の思想の巨人を前にして、その権威に負けて正しく吉本さんの言説と向き合えていないと思います。 その原因は、当時ナンパ師を自称する宮台氏が、援助交際する女子を持ち上げるニュアンスで紹介していたことに、「本物の馬鹿が出てきた」と吉本さんに指摘されたことにあると密かに思ってます。「傷つくのは少女自身だから、止めときな」と吉本さんは諭していました。実際、十数年後、彼女たちの中で自死する娘が何人か出て宮台氏は複雑だったと述べており、縁交取材からも撤退し鬱になった(「どうすれば愛しあえるのか 性愛のヒント」(ワニノの本))という経緯があります。それでも僕自身は、社会学者としての宮台真司の評価は変わらず高いです、というか人間としてチャーミングだと感じています。 |
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話が逸れました。 上述した吉本さんの論旨と『人新世の「資本論」』で斉藤氏が述べている論旨とは驚くほど重なる。ただ、違った点は、ピケティが指摘した「200年の資本主義の歴史上稀有な時期」にあたる80年代の”ジャパン・アズ・ナンバーワン”の日本が舞台になり、当時吉本さんは「資本主義は人間が無意識に生んだ最高傑作だ」と述べていたこと。そして、2020年の時点で、斉藤氏が地球環境を含めた持続可能な新しい非資本主義的社会の志向(脱成長)を打ち出しているところが大きな違いになる。 |
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戦後復興 |
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80年代・90年代、吉本さんは、「マスイメージ論」と称して 盛んに経済論を展開しており、資本主義を肯定しつつもその臨界点が見えたと論述していた。特に90%の人々が、自分は「中流」だと感じている社会は、社会の完成であると同時に終焉であり資本主義の臨界点がみえたと述べていました。 戦前・戦中・戦後と思春期を過ごした吉本さんが、80年代にやって来た日本の高度成長は、モノのない時代に育った人間としては肯定するのが至って素直な反応。もちろん、左翼の論客は、コムデギャルソンを装って雑誌マガジンハウス『アンアン』に登場した吉本さんを、「現代思想界をリードする吉本隆明が『ぶったくり商品』のCM画像になった」(埴谷雄高)等こっ酷く叩いていました。 ファッションブランド・コムデギャルソンは、「付加価値」・「人工的希少性」等を体現する資本主義の悪の権化だと言う訳です。これ日本の左翼のダサいところの象徴。確か上野千鶴子も同じようになことを批判していた記憶があります。だから、高級フランス料理を食べながら「一緒に貧しくなりましょう」って偽善的なことアンタは言うか!って突っ込まれるのだが。。 |
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結論として、『人新世の「資本論」』で評価出来る点は、敢えて言うと「コモン」(地域共同資源)の再定義でもなければ、「脱成長」の提案でもない。それは、僕ら人類が「意志」をもって歴史に関与できるという、21世紀の今日に遺したマルクスの思想の再評価にある。そして、それを実践する上で重要なことは、人間が根源的に持つ実存(過剰性)を正当に評価し、脱成長のシステムの中に組み込めるかでもある。 ただ、現実は118回も嘘をついても平気な首相や、コロナ対策が破綻しているにも関わらずオリンピックを強行する、無意識に破壊神を抱える現首相が、日本の総てを破壊尽くして廃墟になった時点で脱成長を志向することが、この日本に可能なのかです。 まっ、原爆を2発落とされても戦争をやめられない僕らの国ですが、重い腰を上げて動き始めると猪突猛進する性癖もありますので、先ずはそこに期待しましょう! では、では。 |
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