丸栄最後の日  
   

2018630日をもって名古屋栄の百貨店、丸栄が閉店となる。松坂屋・三越・名鉄と共に名古屋の4M百貨店の一角であった。もっとも、三越は僕が高校生で、栄に行きだした頃は、オリエンタル中村という店であった。

 

この丸栄は日本伝統工芸展東海展の会場でありスポンサー的存在であった。尾張名古屋は、家康が大阪城に籠る豊臣秀頼を潰す大阪の夏冬の陣に際して、もしも秀吉子飼いの勢力が湧き出してきて、劣勢になったときの砦として作られた城下町である。

 
   

その城下には、尾張守護所であり信長亡き後の後継を決める会議場ともなった、清洲の商人が、家康の命によって移住することになった。いわゆる清洲越しと呼ばれる出来事である。瀬戸の陶工も、この時に美濃から呼び戻されている。

 

丸栄の母体を訪ねると、この清洲越しの時に摂津から移った小出庄兵衛の小間物屋、十一屋にたどり着くのだという。その後は尾張藩の御用商人にもなる豪商であったが、そこに工芸とのつながりは、特にあるわけではない。

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07/04  丸栄最後の日
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丸栄が工芸と繋がるのは、戦後の経営危機を救った中興の祖とされる川崎音三という人物がカギになっているはずである。日本伝統工芸展を支える日本工芸会の理事であり、東海支部長も務めた人物である。

 

古陶磁器コレクターとしても名が知られている。加藤藤九郎や荒川豊三を育てた人物ともいわれ、永仁の壺事件にも深く関わっている。名古屋の財界には本多静雄という人物も古陶磁コレクターにして、その研究史にも名を止める人物がいる。

 

総合商社安宅産業の安宅英一や、電力王の松永安左エ門・耳庵、出光興産の出光佐三、三菱の岩崎小彌太、そして歴代の三井八郎右衛門などと挙げればきりがないが、古美術、伝統工芸をサポートする財界人、経済人が近代日本を支えてきたとも言えそうだ。

 

平成も終わろうとする30年、政治と教育との奇妙な結びつきから、どうやら特権階級が日本にも成立しつつあるようだ。そして、裏返しとしての貧困層が社会問題として取り上げられていたりもする。

 

その特権階級の人々が伝統工芸と結びつくことも無さそうな雰囲気である。加藤唐九郎も荒川豊三も知らない人々が多数派となり、永仁の壺事件も忘却の彼方にあるのが現実である。昭和は遠くなりにけり、ということか。

 

スーパーで売られていたボイルホタテのトレイを菓子皿として使ってみた。充分絵になるように思う。ガラス工芸は厳しくなるばかりであろう。急須職人は仕事が結構あるものの作り手が減るばかりだと聞く。これも時代の流れなのであろう。