小鮒釣りし
 
今年は雨降り以外は、できるかぎり畑に出かけている。別にまとまった作物があるわけでもないのだが、草を刈り引き抜くだけでも、なんだか楽しくて仕方がない。春に小さなジャガイモを収穫し、夏から秋にかけてトマトとナスとキュウリを少し収穫した程度で、あとは雑草に戻ったラッキョウがずっと放置状態で自己増殖を行なっている。

10月の秋彼岸が近づくと眠りから覚めて雑草の中から触覚のような細い葉を伸ばしてくるのであったが、11月ともなれば、それなりに可憐な薄紫の花をもりもりと咲かせてくる。そして、、その花も色あせて実になりだすのが今頃だ。
 
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12/05 小鮒釣りし
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2005~2012  常滑レポート index
畑にはスギナ・ヨモギ・チガヤ・カルカヤ・セイダカアワダチソウ・ハハコグサ・ドクダミ・タンポポ・シロツメグサ・ヌスビトハギ・ハコベラ・・・もう雑草の楽園である。そして、その草たちとじゃれ付くような時間は春以来、仕事が終わってからの夕刻であったのだが、クリスマス・イルミネーションが輝き出すころともなるともう暗くてだめだ。

しかし、まだ朝は7時になれば明るい。お年頃で早起きは苦にならない。そこで、最近は仕事前に畑に出てほんの少しの野良を楽しむことになった。
   
さて、畑の下には溜池がある。天保十二年の村絵図で確認すれば、高城池だ。80年~90代に行なわれた圃場整備事業で多くの溜池はなくなり広大な農地が産み出されていった。高城はタカノシロと読む地名だ。おそらく鷹の代であろう。

名古屋の城主は知多半島でしばしば鷹狩りをしている。その鷹にかかる経費をこうした土地から工面していたのだろう。亡父は定年退職後、毎日のようにこの畑に通い中古のトラクターまで導入して農家の真似事をしていた。そして、彼は池への道も整えていたのだ。

池に降る斜面は何度か草刈もしたが、すぐに笹が繁りつる草が多い小さなジャングルになってしまう。そこで、このところそのまま放置していたのだが、ここに来てまた道を切り開いてみた。
   
池には魚がいる。メインは鮒だ。小学校の頃は溜池に鮒を釣りにいくのが子供の遊びの定番であった。別に釣ってどうするというのでもなく僕は家の椎茸の原木を水に漬けるために父親が作ったコンクリートの水槽に入れていた。

餌は友人の家の鶏舎の隅に涌いている縞ミミズを掘っていた。小規模な養鶏業が成り立っていたのは昭和40年代までだ。そして、子供たちは池や海で遊ばなくなった。さすがに僕の世代では野うさぎを捕まえるということをしていない。

野山で発掘作業をしていると時々兎が駆けている姿を見かけたことはあるが、それを捕まえようとはしなかった。それが、子供たちの冬場の遊びであったということは大人から聞かされた情報だ。
 
 
さて、兎追いし彼の山、小鮒つりし彼の川は、農村の基調な蛋白源を補給する作業であったに違いないと、この頃になって思い至っている。それが経済成長と共に食が豊になって川魚などを食べなくなったのが我が幼少期ということなのだろう。

そういえばタニシなども1・2度食べたくらいであったが先輩諸氏の話を聞くとしばしば食べたという。タニシや鯉・鮒などの淡水魚類にはジストマに代表される寄生虫がいる。魯山人などタニシを生煮えで食べて肝臓をやられ命取りになっている。そうした衛生観念が川魚を避けるようにしたのかもしれない。

あのアメリカザリガニですら、食用に輸入したのにも関らず食べずに放置しているのだから、なんだかおかしな話だ。加熱すれば食べられるのだが。僕も子供の頃に一度塩茹でを食べたきりなので大きなことは言えないのだが。

そこで、くだんの池に釣り糸をたれてみた。餌は畑の草を掘り起こすときに出てくるミミズである。これが、けっこう普通にいてモグラがいっぱいくるので最近は支柱にアルミ缶を被せた騒音発生装置が畑に林立している。
 
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