忘我に導かれる事 |
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2005~2010 常滑レポート index |
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もう40年以上テニスをしていて、技術はまったく上達しなくなっているのだが止められない。それでも錦織の活躍など目にするとついついフォームを変えてみたくなり、この頃は イージーなフォアをネットに掛けてしまう。 |
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もっともハードに練習し上達したのは高校時代でラケットはウッドだった。そして、その頃に5回戦まで勝ち続けたのが最高の成績だった。ブロックで優勝した。そして、その時の忘我の感覚というのがいまだに記憶に残っている。 それはもうボールしか見ていなくて、どこにどう打とうなどという意識が全く消えてしまう体験であった。気がつくとゲームが終っていたという。 |
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ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの評伝を読んでいるとヴィンセントも医師から止められるほどに夢中になって炎天下でひまわりを描いている。彼は描いていたのか描かされていたのか。そして、癲癇を起こし他人に危害を加えるような行為を行っても、その記憶が無いという、明らかな異常の世界に入っていく。 | ||||||||||||||||||||||||
常滑市民俗資料館 |
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仏師は原木の中に居る佛を彫りだしているのであって、自らが造形しているのではないという。ミケランジェロもまた大理石の中にいるダビデを出しているだけだと言っていたような。 | ||||||||||||||||||||||||
彫っているようでいて、実は素材に導かれて彫らされているという、他律的な要素が名作には潜んでいるように思えてならない。その作り手の作意を消してしまう何かが名作の秘訣なのだろう。 おそらくはサッカーの芸術的なシュートも蹴っているようでいて蹴った当人は身体が自然に反応して蹴らされているのに違いない。 |
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人生もまた生きているようでいて生かされているのだというと生臭坊主の説教くさくなるので、ここらで止めるべきであろうが、いろんな人と出会い物を見て聴いて造って人生の方向が決まっていくのだが、それも偶然の連続と言えばいえよう。その偶然は自律的にコントロールできるようで、実はそうでもない。子供が親を選べないように。 森の中の埴輪 作者は戸崎桂子 平成22年度陶芸研究所研修修了生 名古屋ハートフルギャラリーの個展にて購入。 |
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