渥 美 |
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2005~2012 常滑レポート index |
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渥美半島で12世紀から13世紀にかけて盛んに焼き物が生産されていたということは中世考古学の業界において常識に属する事柄なのだが、世間一般では柳田の椰子の実ほどにも知られていない。 そして、常滑の焼き物と近縁関係にある渥美の焼き物は、中世の常滑焼を追いかけていると、しばしば一緒に見ることになってしまうのであった。かれこれ20年ほど前のことになってしまうのだが、平泉に出かけて12世紀の常滑と渥美の焼き物を大量に見たのであった。 |
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その後、これも10年ほども前になろうか、伊豆の韮山でも同じような体験をしている。そして、似ていて非なる渥美の焼き物について、あれこれと発言したり文章にしたりしてきたのであった。 そうこうすると、渥美半島の研究者から声が掛かるようになる。そして、出かけていくのだが、近年自動車の運転が億劫でしかたがない。そこで、電車に乗っていくのであるが、田原の街中までしか電車は到達しておらず、会合は赤羽海岸の建物で開かれることが多いのであった。 |
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そこで早起きをして、田原まで行き、渥美半島を歩いて横断するという計画を立てるのであった。そして、歩いてみると同じ半島でも景色も地層も地形も随分違うのだということを体感することができる。 さらに、太平洋だ。これがいつも見慣れた伊勢湾とは、あまりに違うのだった。それは、もう圧倒的なスケールで展開するのだよね。当たり前の事ではあるのだけれど。 |
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お昼の休憩時間に皆が食堂に出かけていった間に、また太平洋の海岸に歩いていき、そこで巨大な流木に腰掛けながら持参の弁当など食べると、実にもう極楽気分を味わうことになるのであった。 中学生の頃、なぜか夕刻になると伊勢の海を見に自転車で出かけたことを想い出す。古いバットが親父の舟の底に入れてあって石を拾ってノックを海に放ったりしたのであった。カルメン・マキが「時には母のない子のように」と歌っていた頃のことだ。 太平洋が相手だったら、とてもノックをしようとか石を投げようとか想わなかったなと、ふとそんな想いがよぎる。すでに45年ほどの時が過ぎているのだな。 |
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