乙未  
今年もいつもの様に誕生日がやってきて過ぎていった。そして、当然のように寒波がやってきて草は枯れていく。師走が近づいてきたと思っていると、あっという間に新年になってしまうものだ。

生まれた村の同年のまとめ役で小学校の教務主任をやってる治くんが、大晦日の神社のお篭りと明けて2日の御祓い、さらに厄歳の若者たちとの会食に参加するかを尋ねるチラシを実家に届けてくれたのは今月初めのことだ。
 
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11/19 乙未 
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2005~2014  常滑レポート index
僕たちが厄歳の時は村の還暦衆と貸切バスで伊勢神宮まで行き、ご祈祷、会食というメニューで、経費はすべて厄歳衆がもったのだったが、まるで昨日の事のようだ。その時、子供たちはまだ保育園に通っていたのだから、たしかにそれなりの時間が経過していることは間違いないことではある。

つまり、僕は前回の乙未の年の11月に生まれてきたのだった。本当に60年も過ぎたのだろうかと思わずにはいられない。鏡を覗けは白い髭を生やしたオヤジが写るのだから、疑いようもないのだけど。

随分いろんなことをやってきたのだけど、振り返るとどれも中途半端な事ばかりのように思える。しかし、その程度の人間であったとして諦めるしかないのだろう。高校時代に始めた硬式テニスをいくらかの中断はあるものの、いまだに週1回のペースで続けている
   
そして、その腕前たるや呆れるほどに上達していない。高校3年生の時が最高であった。大学で続けていたとしても、おそらく変わらなかっただろう。それだけの素質であった。実際、インターハイ予選のあと2勝すれば本選という段階で出てきた選手は、とても同級生とは思えないレベルであった。

大学の体育会テニス部にはインターハイ出場者ばかりが推薦で入っていた。つまり、レベルが違ったのだ。わずかに2ヶ月ほどの在籍であったが、そのレベルの選手が出場する関東リーグ戦や全日本テニス選手権などにボールボーイで出かけたことがある。
   
テニス雑誌で名前を見かけるような選手がぞろぞろいた。そして、圧倒的な違いを見せつけられたのだった。そして、その優勝選手たちですらグランドスラム大会ともなると本戦に出るのが精一杯というのだから驚くしかなかった。

日本の男子はデビスカップのアジア予選を突破できるかどうかという状態が長く続いた。その後、松岡修造が慶応高校から柳川商業に転校してインターハイ3冠を果たし、さらに渡米して大学に行かずプロとなったのも驚きだったし、ウィンブルドンでベスト8に入った時も拍手喝采したものだ。
 
 
僕が高校、大学で感じた圧倒的なレベルの違いと同じ構造が日本とアメリカニア≒世界の間に厳然と存在していたということなんだと納得させられる。でも、まあ素質があっての世界基準なわけで、誰でもアメリカに行けば錦織になれるわけでもないのは言わずもがなだし。

まあ、分相応なフィールドでこれまで泳いできたんだろうなと納得しつつ村の神社で四十二の厄年連中と新年を迎えることになりそうだ。
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