時間があったら  
   

時間があったら、あれもできるし、これもできると、あれこれ皮算用をするんだが、実際その時間を手に入れると、どっこい何もせずに怠惰に時間を浪費して終わってみれば何一つ出来ていないというのが、子供のころから自分を支配している法則のようだ。

毎日が日曜日のような、信じられない日々を送りながら、ここにきて何もできていない自分に、いささか嫌悪気味な日々である。しかし子供の頃を振り返ればむべなるかなという感もぬぐえない。

 

常滑レポート index
05/10  時間があったら 
若年性認知症
長三賞1972年 
 それにしても 
ラジオ
晩秋の夕日に
楽園にて
飲酒が止まらない
合宿
手前味噌 
蝉時雨の頃に
変貌 
 絶好調な時
十年一日 
亡父七回忌
天然物 
2015年末2016年始
2005年の早春
ゆたかな時間
仙境 
世代交代 
うさぎ追いし
孤独 
研究姿勢 
ヌートリア 
急須
石から鉄へ 
縄文時代 
年の瀬に 
乙未 
だいえっと 
完全主義 
 さいてん 
 定説くずし
 振り返りつつ
 夢のような
名前の世界
予定調和
かめら
論文提出 
 こんびに
小鮒釣りし
 論文提出
前近代・近代の彼方 男と女 
異 形 
ファール 
しみじみ
子どものころ
渥 美
飽和点 
世界
青い鳥
田舎暮らし
 日記
 自画像
人類史的転換......
美しき都会
 暗黙知
感動せんとや
稔りの秋に
バベルの塔の物語 
若者たちと
蝉時雨聞きながら
 行く末の記
過剰なるものども
 梅雨入り直後
笛を吹いてはならぬ 
 晴鳶堂の記
 桜咲く
 若者三人
忘我に導かれる事 
立春 
一区切りの正月   

2005~2017  常滑レポート index

夏休みや冬休み、春休みなどの長期の休みをほとんどテレビ見て、虫を採り、魚を釣りなど遊んで過ごしてきたのだし、中学・高校ともなれば部活のテニスがほとんどであった。まだパソコンもスマホもない時代で良かったのかもしれない。

もし、この時代に自分が子供であったら、ゲーム三昧で引きこもっているのかもしれない。そう考えれば、怠惰な日々を送る還暦越えの自分も、肯定しなくてはいけないのかもしれない。

 

人生80年という時代になりつつある。60を過ぎて新たに何をするという事もなかろうが、この年になってSNSなどという分野が手元にやってきた。始めるとゲームばりに意識を持っていかれるツールである。

 

僕らの世代は中学から高校に入るころにラジオの深夜放送にはまっている。ラジオを聴きながら受験勉強というのがお決まりのパターンであった。テレビから離れたのもそれだったし、フォークソングのスターはテレビには出ず、ラジオで歌い、しゃべっていたのだった。

   

ハガキや電話で放送に参加するまでのめり込んではいなかったが、毎日聴いていた。そして、社会人になり家の電話にFAX機能が付いたころ、FAXで放送に参加できるようになっていた。そして、かつて深夜にしゃべっていた人々が昼の放送をするようになっていたのである。

 

そうこうする内にインターネトの時代になった。そして、ラジオ番組のホームページができ、あれよあれよという間に番組にメールが送れるようになり、番組は双方向性を一気に増してきたのが、この20年の流れか。

 
 

5・6年前には、さらにツイッターとかフェイスブックでラジオ番組のパーソナリティと情報をやり取りしたりもできるようになり、ハッシュタグを付けてリスナー同志が感想を寄せたり意見を発したりということも少なくない。

 

ツイッターなどは意外にもNHKが積極的にとりいれているのも時代の変化を感じるが、番組の内容も充実している。民放は経営が相当厳しいのだろう、CM以外にもラジオショッピングなどがあり過ぎる感じだ。

 
  2005~2017  常滑レポート index

 page top    
   

そんなこんなで一日家にいると時間はあっという間に過ぎてしまい、やろうと思っていたこともできずに終わってしまうのだ。ネットの解毒を兼ねて午後は畑に出向く事にしているのだが、これはこれでお遊びなんだよなあ。せめて、閑居して不善をなすという事にならないようにしなければ。