飲酒が止まらない |
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取り敢えず明るいうちは飲まない事にしているのだが、午後6時ころからビールを飲みつつ晩御飯を料理し、その流れで芋焼酎に移っていくパターンが定着している。そして、どのように床についたのか記憶が無くなって朝を迎える。 朝早くに出かける仕事がないものだから、余計な心配もなく心ゆくまで酔っぱらえるのだが、ふらふらしている亭主に家人は小言を云うこと一再ならずだ。それでも週一でテニスを80分。午後は畑で草刈やら根っこ取りやらをしている。 |
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2005~2016 常滑レポート index |
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飲酒は仏教の戒律では五番目に禁じられているのだという。鎌倉時代の中頃に北条氏の帰依を受けて教線を拡大した大和西大寺の真言律宗を率いた叡尊などは、厳しく飲酒を禁じたという。叡尊は飲めない体質だったという。 しかし、古来日本の神々は、必ず祭事において酒を要求するのだから面白い。そして、神社の経営を担っていたのは神宮寺という性格を持つ寺院になる。天台教学が普及するにつれて本地垂迹説が受け入れられた結果だ。 |
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よって多くの僧侶が飲酒の誘惑に負けて適当な口実を設けて飲んでいたのだという。その気持ちよく解るなあ。僕の口実は米や麦系の食物摂取を止めて、一日一食を基本とする生活を送っているのだから、しかも、体重も血圧も下がったんだからというのだが。 建長四年に鎌倉幕府が出した沽酒の禁は『吾妻鏡』に記載されていて古くから多くの研究者が、その存在を取り上げていたのだけれど、文永元年、弘安七年、弘安九年と鎌倉幕府は矢継ぎ早に沽酒を禁じる追加法を出しているのであった。 |
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そして、弘安九年の沽酒は遠江の国で悪党が行っていることをけしからんと言っているのだった。文永・弘安といえば元寇が押し寄せ世情穏やかならぬ時期ながら東国の鎌倉幕府御家人たちの領地も少なくない静岡で市場に悪党が出てくるのであった。 建長四年の沽酒では鎌倉市中の民家の酒壺を一家に一つだけとし、残りは破却。市場で酒の売買を禁じたのであったが、おそらく逆に闇酒を誘引することとなったのであろう。そして、悪党がそれを扱うことになる。まるでアメリカの禁酒法とアル・カポネの関係を見るようだ。 |
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そして、こうした状況を北条得宗は苦々しく思い沽酒を改めて禁じ、さらには真言律宗の教団の力も借りて、より一層強力な飲酒抑制政策を打ったものと思われる。その流れを跡づけるように鎌倉を中心に大量に東日本で出土している大甕が13世紀末になると急速に減少しているのだ。 |
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そして、南北朝期以降、京都とその周辺では酒蔵が生まれてくる。室町幕府はそこに課税するのだが、酒壺役などという。その時期酒屋でメインに使われたのは備前の大甕である。甕と壺を区別されていないようだ。そして、鎌倉時代、酒屋は認められないのである。 |
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がしかし、酒や肴は古来神々の好むものであり、『魏志倭人伝』にも酒を好む連中だと、わざわざ記録されているのだ。肴には魚や鶏や時に獣の肉系も入るのだが、殺生の禁断は仏教十戒律の第一である。なんともギクシャクした関係にあるのだ。 幕府崩壊は元寇に伴う論功行賞から西国武士団に不満が昂まり、後醍醐天皇とその周辺が王政復古運動を展開したことで一気に促進したとするのが教科書的ではある。しかし、13世紀末の永仁の徳政令なども手放した土地を取り戻すといった債務関係ことにも増して、乱れた風紀を取りしまることが徳政であるっていたという。民意が離反すると政府は持たないというのは案外古い時代からあったのかもしれない。 |
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