しみじみ
 
 30年ほど過ぎたのだが、郷里の街の資料館に就職して数年、毎年の様に圃場整備などで消えていく中世の窯跡を発掘調査していたころ、多くの陶芸家が遺跡を見に来て、あれこれといろんな話をするようになった。

その中に吉川正道や鯉江良二といった面々もいて藤井友樹という写真家もいたのだった。そして、誘われるままに、それぞれの住まいにお邪魔をし、酔っ払い議論のようなものをしていたのだった。 
 
常滑レポート index
 0714 しみじみ
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2005~2012  常滑レポート index
そこに東京からネスカフェの関連の仕事だった記憶するのだが、笹山 央が加わり、さそわれるままに彼の世田谷の寓居などにもお邪魔をして、あれこれと話をしていたら、明日渋谷で勉強会があるから一緒に行こうと誘われたのだ。


笹山さんと前日に新宿のション便横丁で飲んで、さらに笹山さんとこでもなにか頂いたような記憶。というか、記憶も残らぬほどの夜を過ごして渋谷の大衆喫茶に出かけたのだった。
   
そこにいた面々の中に東日出夫がいたのだった。なにかの拍子に気分が悪くなり、トイレに向かい胃袋の中のものを逆流させていると、心配した東さんが様子を見に来てくれたのだが、僕が胃液を逆噴射していたのが女子トイレだったようで、東さんは慌てて僕をそこから救出してくれたのだ。


そんなご縁で、そのころはゴールデンウィークに東京の大学で開催されていた日本考古学協会の総会に出席すると、あちこちの博物館や美術館、ギャラリーなどを見て、東逗子の東さんの家にもお邪魔するようになったように記憶する。


まだ、二人の子供さんも3歳と6歳だったか、一緒にお風呂なんかにも入って、それはもうジブリのアニメの世界にでもいる気分。さらに、日出夫さんの父親ぶりが実にかっこよくて、それはもう理想像なのであった。
 
そのころ吉川家の子供たち四人も小学校一人と保育園三人という状態で、ここの子供たちにも気に入られてしまった僕は擬似お父さんをしていたし、きっと自分の子供ができたらあんな風になるのだろうという手本でもあったわけだ。


そして、あっという間に時間は過ぎ去り、子供たちは巣立っていった。と思ったら東さんは関東から関西への転出だという。近場で仕事場だけ別に設けるのかと踏んでいた僕の予想は大きく外れた。
 
 
これには驚いた。大きな仕事を終えて、転機到来と自分でも思っていた矢先の先導者のアクロバットなだけに、心中穏やかではない。勿論、老母も実家に独居している事ではあるし、さほどな動きもとれないが、生き方としてとても参考になる。

吉川家も子供たちが巣立ち、通いなれた懐かしい家も別の新しい家に移るばかりだ。みんな、どんどんとステージを変えていく。とても刺激的な状況だ。命は一つ、人生は一回。

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