縄文時代  
縄文時代を何によって規定するのかは、研究者によってそれぞれであろう。考古学一般においては土器の出現をもって新たな時代を画する現象とし、それまでの無土器時代との変化を重視する。

土器の出現はそれまで食べられなかった食材を容易に加熱処理し、貝のような食材もスープとして煮込むことで各種の食材を利用できることなど、画期的な現象であることは言うまでもない。

その一方で定住し集落の周辺の自然環境に適応しながら季節ごとの食料を組み合わせて生活を営む、貝塚や定住集落の成立する時期に画期を求める見解も魅力的だ。
 
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2005~2014  常滑レポート index
その時代の特性は、それ以前のキャンプを中心として遊動型の生活とは大きく異なっており、定住型の生活様式は居住空間の自然環境をも変えていく。栗や椎の木のような有用な樹種を残して、集落周辺の樹木は薪として消費され材木や道具になっていく。森は開け、光を好む植物がやってくる。

しかし、それから1万年ちかくつづく縄文時代は初期に確立した道具や技術に革新的な発明・改良を加えることはなく、この社会には生産の効率を高めようという動機がなかったというように理解せざるをえない。

この延々と続いた農耕以前の文化は、集落を都市へと発展させることも基本的になかったと考えられる。山内丸山遺跡は縄文時代のどこにもあるわけではない。さらに、その山内丸山遺跡も長期にわたって形成された集落であり、全ての住居が同時に存在したのではな
 
西田正規著『縄文の生態史観』では「私たちは、なぜ集落を大きくできなかったのかと考えることから出発しようとするが、その反対に、小さな集落に住むことの積極的な理由や、そこに彼らの理想的な生き方が投影されているのだと考えることは少ない。」という指摘がなされている。なるほどだ。

僕自身、進化論的な人類史観が染み込んでいるものだから、縄文時代は土器も石器も集落もなんだか理解し辛いものとして忌避して来たように思う。

「縄文時代の社会は、資源がいくら豊かであろうとも、より大きな集落で暮らそうとはしなかったのだ」と西田さんは理解し、「縄文時代の集落が小規模であり続けた背景には、平等性原理にもとづいた社会関係を保持しようとする社会的意図があったものと予想しなければならないのである。」という。
   
こういう後出しじゃんけん的な見解は、ある日突然書き換えられる危険性を孕みつつも魅惑的なんだね。

その一方で、縄文時代のなかで土偶に代表される呪術的な分野だけは時間と共に発展しているということは、この時代を特徴付けてあまりある現実だ。早期・前期・中期・後期・晩期と時系列で土偶は濃厚に進化している。

「神話的世界において体験するだろう強烈なリアリティについていくらかでも想像力を働かすなら、縄文時代における神話的世界の拡大という現象に、十分な歴史的動機が存在していることに思い至る。競争原理のあらわな社会関係の中で達成されるリアリティとは異なった、人間と自然界のすべてからなる全世界への一体感の中で達成されるリアリティの深化に向って、縄文時代の歴史が動いたと考えるのである。」という。
 
 
なるほど、物心ついていらい僕は神話的世界の拡大より競争原理のあわらは社会関係の中で生きてきたように思ふ。そこで得られるリアリティをこそ最優先にしてきた感じが無くもない。

がしかしだ、自然界の全てからなり全世界への一体感という魅惑的な領域には病原菌やウィルスが猛威を奮う現実とも向き合わねばならない。還暦を迎えた自分一人なら、いっこうに構わないのだが子供や孫の世代を考えると現状を礼賛せざるを得ないかな。

縄文人の平均寿命は20歳に満たないという見解をどこかで読んだ。乳幼児の段階で死んでしまう確率が高いことからくる結果だ。それが当たり前の時代であれば、その現実を神話的世界の中に取り込んで得心するしかないのであろう。
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