アリエッティー  
今年もまた、いつものように夏が来て、いつものように熊蝉の大合唱が響き渡る季節となった。いつもの見慣れた光景ながら、初春に鬼籍の人となった老父のことや、御世話になった故人のことがしきりと偲ばれるのは、不思議なほどだ。


そして、身の周りに生起する色々なことどもが、なにかしら現実感を伴わずに流れていくように感じられる。どこかしら空虚な感覚に支配されてきているのだが、若者達は元気に現実を生きているのであろうか。
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子どもにまつわる事件など目を背けたくなるような報道も、どこかしら別の国で起こっていることのような感じがしてしまうのだが、連日の猛暑の仕業ということだろうか。

およそありえない設定でありながら、映像に接したとたんに現実よりもリアルに存在していると思えてくるのがスタジオジブリの作品で、この夏の「借り暮しのアリエッティー」もまさにそれだなと思わせる作品であった。
草だらけの畑に連日出かけているのだが、ここでは草の陰やら葉の上に、しばしばアリエッティーのような虫君と対面する。そして、魅入られてしまうことがしばしばだ。

昆虫という生物を見ながら、そこに妖精の存在を幻視し、造物主たる神仏を透視するのが我ら人類の異常なる性癖である。その性癖があればこそ食料を盛る器にまで美しさを求めるのであろう。食料は栄養だけではないし、盛られた食の味だけでもない。
 
常滑市民俗資料館




さらには生きるということにも、ことさらな意味づけを行うことになる。蝉のようには生きて死ねない。なかなかに厄介なのだが、だからこそ面白いということにもなろう。石器時代以来かわらぬ営為の末に今がある。

いつの時代も、何処においても人は意味づけられた生を生きてきたのだと思う。その意味付けの仕方が、それそれに異なるだけであって。
 往復書簡    


東さんの抽象作品について
「侘びさび」その他
no.3 補足の返信
「侘びさび」no.3 補足
「侘びさび」no.3
 「侘びさび」no.2
「侘びさび」


















 
さてさて、畑のアリエッティーたちと暮らす日々も悪くはない。躰を使い、大地の恵みのおすそ分けを頂き、質素に生の意味など考えながら。幸せな日々に違いない。子孫に美田は残すまい。

そして、学問をこそ残しておこうの願うのだが、このところその学問の存在価値も危うくなりつつあるように思われるのだが。とりわけ人文系の学問が不安だ。