なにかにつけて影響力の強いのはテレビであって、グルメ番組などで取り上げられた飲食店の前には、翌日になると行列ができているという現象は常滑にもある。

そのテレビ番組で急須が取り上げられ、良い急須は取っ手でこのように立ちます、と解説者はカメラの前で急須を逆立ちするように立てたのだという。それを見た常滑の商店や急須職人の関係者は唖然として、これは困ったと直観したのである。なんらかの対策を取らねば、商売に直接影響しかねない。テレビ局にもクレームをつけるくいはしたいと考えたが、それなりの根拠をもった抗議でなければ無視されかねないのだ。

旧知の商店主が来て、反論したいのだがという相談を受けた。テレビ番組は観ていなかったが、この手の話には僕も何度か出くわしている。古い記憶では、中学校の頃に急須造りを稼業としている家の息子である同級生と話しているときに、急須の良し悪しの判別基準を知っているかという話題が出て、良い急須は取っ手で立つのだという新鮮な情報が出てきた。
それから20年ほども過ぎたころ、今度は師事していた山田陶山先生のお宅で、この話を耳にした。先生のお宅に三代山田常山氏が来訪され、困ったことになったと相談されたのだという。それは常滑出身の哲学者、谷川徹三先生が書いた「山田常山論」という文章に、この説が紹介されているというのであった。

あらためてくだんの文章を確認してみると谷川先生は青木木米の作った急須の中でも売茶翁が好んで用いたとされる形の急須では、取っ手で立つ・立たないが真贋の判定に使われるのだということを紹介し、バランスの良い取っ手や口の配置については、ある程度は、この目安も機能するのであろうという論旨であった。

実際、取っ手で立つ急須が良い急須だというのであれば、その条件を満たすのは簡単なことで取っ手の先端を大きくラッパのように開いてやればよい。さらに器本体は球形に近いものか、浅いものにすれば容易に立つ。そして、器本体を薄く軽く造り、取っ手は分厚く重く造ってやれば簡単に立つのである。
さらに一般に急須と呼ばれるものには取っ手が注ぎ口の真後ろに付けられたティーポットスタイルのものから、薬缶のように器本体の上に取っ手のあるもの、さらには取っ手そのものがない宝瓶(ほうひん)と呼ばれるものまであるのだ。

取っ手で立つ・立たないというのは横手(よこで)と呼ばれるグループだが、その取っ手を持ちやすく工夫して先端を丸く仕上げたものも少なくない。そして、それは使う側にとって、ずいぶん勝手が良いのである。

さてさて急須はお茶を出す道具というのが第一義なのであるからお茶が美味しく出るというのが最優先されなければならない。そして、使い勝手が良いということも道具であるからには無視できない。

注ぎ口が出るお茶が伝って器本体の方に垂れてしまうというのは頂けない。茶漉しがすぐに詰まってお茶が出てこないなんてのも困りものだ。
もっとも工芸品として鑑賞することだけで満足できるというものも無しとしない。こうなると、何が良いものか良くないものかの基準が曖昧になってきて、何か明確な基準があってほしいという願望が目覚めてくるのであろう。

僕はこんなことを文章にまとめて商店主に渡すと、彼は組合に持ち込み、仲間に配って対策をあれこれ練ったのだが、木米(もくべい)や売茶翁(ばいさおう)が読めない連中がいたりするので、用語解説も付けてほしいと再来。なるほど取っ手で立つ急須が良いという俗説が蔓延するはずだと実感。