(春陽(1901−1997))



長い花冷えが終り、そろそろ入学式のシーズンとなった。春の観光シーズンに合わせて一般ウケのする展示を企画した。一般ウケとは一見して華やかで、上手いと思わせる物ということになる。


予想通り、展示を見た人たちの評価は高いのであった。谷川 肇、春陽(1901−1997)という人物を中心として、その周りに集まった人々との交流を示す遺作をまとめて借り受け並べてみた。


谷川春陽は常滑の陶器学校の出身でロクロ実習の教師であった。その腕の確かさと温厚な人柄、さらに研究熱心さもあっていろいろな人が春陽先生のもとに集っている。そして、多くは学校の同僚や教え子である。


春陽先生が鬼籍の人となって既に10年以上の歳月が流れ、先生の名前を聞いても反応しない人が僕のまわりでも現れだした。まして、その同僚で戦後常滑を離れて静岡で故人となられた林谷乙治、祥光、龍奎(1908−1980)となると知っている人の方が少ない。

(祥光)
林谷先生は昭和のはじめに常滑の陶器学校の絵画教師として赴任しているが、出身は金沢で東京美術学校の出身である。第二次世界大戦で兵役にとられ、復員後はどうしておられたのかと思っていたが、ネット検索すると名古屋市の商工課で働いていたことが松田権六の手紙の中に出てきた。改めてネットの凄さを知る。


その林谷先生は春陽先生と共同で器を制作しているのだが、釉下彩の青華や九谷風の上絵がハンパでなく良い。そして、そのデザイン力や筆のタッチが良いだけではない。何かがあるとは前から思っていたのだったが、この企画に合わせて林谷先生の自費出版と思われる小冊子が出てきた。


そこには上絵の技法などが主に書かれているのだが、意外であったのは巻頭緒言に常滑の土のすばらしさが熱く語られていることだった。そう思ってその作品を見直すと確かに常滑の有色土の上に白土を化粧掛けし、そこに絵付けをしているのであった。
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龍奎(1908−1980)
九谷や瀬戸、有田などの色絵物が量産された陶業地は、土そのものが白色なのである。カンバスが白いからこそ着彩の色が冴えるのである。その筆頭が中国は江西省の景徳鎮に他ならない。


有色のカンバスに白絵の具を塗って、その上に色を重ねても白い色の下にある素地の色が透けて見えたり、焼けば有色成分が白土の中に点々と染み出してくる。混ざればひどいことにもなるのである。


古陶磁の世界に古染付と称する一群の磁器がある。明末の民窯製品で虫食いなどと呼ばれる釉薬の剥げがあったり、とにかく粗製なのだが、これが日本にばかりあって日本の、しかも茶人がこよなく愛したものであった。


林谷先生は土味を活かして掻き落としの技法を駆使して露胎の部分を作り、カンバスには点々と素地から吹き出た雀斑のような斑点が出ている。明らかに官窯の完成度ではなく民窯の味を演出しているのである。
常滑市民俗資料館

山田勝治 一犂雨(1922-2000)
そして、古染付にはないデザインのハイカラさが見られるところも味わい深い。春陽先生と離れてからは、独自に色土を重ねて器物を作り、堆朱・堆刻のように彫りを入れて断面の色変わりを見せる作品を創出、これを堆瓷とし静岡市の無形文化財に指定されている。


ちなみに林谷先生に連れられて戦時下に美校受験に赴いたのが山田勝治 一犂雨(1922-2000)先生で、この先生は春陽先生が陶芸研究所の技術スタッフとして出た後、昭和36年に常滑の高等学校でロクロを教えることになっている。美校の日本画を卒業してロクロの先生であった。


春陽先生の茶碗に勝治先生が絵付けをした作品が多く残っている。勝治先生の絵は、なんとも味があるのだが、その味もまた古染付の味に近く、狩野派のそれではない。
常滑市民俗資料館





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