土ぐるい・土変化
焼物は粘土を焼くことによって生れる。粘土のなかにはいろんなものが含まれている。無機物、有機物、昆虫の卵からバクテリアなどなど。粘土は大地の中で熟成されたものであり、元をたどれば岩石になる。岩石がいろんな作用を受けながら長の年月を経ることにより粘土が生れるのである。

磁器原料のように陶石を水車で潰して微粒子にして、それを練って原料にする場合もあるが、これは粘土と違い純度の高い原料になる。純度の高い原料はきれいである。粘土から砂や塵を抜き取ると、これも粘土粒子のみになってきれいなのだが、その母胎となった大地の成分が混ざり合っている分だけ磁器のように白くはならない。
粘土に混ぜものをしたり、焼加減をあれこれ調節することで焼物の器肌にさまざまな表情がでること、これを景色といったり窯変と言ってみたりする。もちろん薪で焼けば灰が被り、これまた思いがけない変化があったりもするのだが、その自然の釉に負けず劣らず粘土が窯の神様とコラボレートして生み出す器肌の変化が面白い。

いろんなものが交じり合っていればいるだけ、そのテクステャーは多彩な姿をあらわしてくれる。まるで自然そのもののように奥深い味わいがある。しかし、こうした表面の多彩さに溺れると、全体の造形が疎かになってしまったりする。自己満足にも陥りかねないのだ。
薪の窯で焼かれた土管や甕などにこの土が見せる絶妙の景色をもつものがあるのだが、冨本泰二さんは、以前からそんな常滑の焼かれた土がみせる表情に惚れていた。
自作とともに野ざらしになっていた甕や窯道具を展示する試みも重ねているのは、すでに報告済みである。

そして、ここにきて富みに土変化にご執心である。「飯茶碗でそれぞれの表情をもつものを千個くらい並べて、その中から気に入ったものを選んでもらって、自分なりの使い方をしてもらうなんて企画はどうだ。」なんて意気込んでいる。

50年ちかく焼物で飯を食ってきた人が、まだまだ焼物でやりたいことに満ち溢れている。そして、いまさらながら土の見せる表情の奥深さに魅入られている。もうフォルムがどうのこうのという段階ではない。
好きなことを好きなようにやって良いし、そういう生活が成り立つ段階に入っている。かつて銀行の頭取が桃山の茶陶にどっぷりと漬かって作陶三昧に耽った半泥子のポジションとさして変わらない。ずいぶん贅沢な暮らしだが、その根底にあるのは、せっかく焼物に溢れた土地で焼物に関わって生きてきたのだから、とことんその焼物で人生を楽しもうという事かな。

若い頃にも薪窯を100本焚いたから第二ステージに突入とのことだが、第一ステージから第二ステージに至る過程には、工場製品の量産という課題が付きまとっていたはずで、その工場の経営という重しが外れて生活もひと段落という時、これだけ楽しそうにいろんなことができるのは、ちょっと羨ましいね。このさき十年ほどして、自分がどれだけ輝いていられるものか。考えさせられる工房訪問ではあった。

(銀行)