復元と成熟と
多治見・土岐・瑞浪といった地域は、瀬戸とつながる陶磁器の産地で、美濃焼という括りで語られる土地柄である。その瑞浪の陶磁資料館で青山双男さんが古代・中世から近世にかけての陶器の製法を実演するという案内をいただき、初めてくだんの資料館にでかけてきた。

青山さんとは3年ほど前であったか、僕が20年くらい前に出した論文について話を聞きたいという電話から付き合いが始まっている。それは東海地方の中世窯で大量に生産されていた山茶碗という粗雑な碗の製法についての論文で、山茶碗を観察していると成形時に生じたと思われる痕跡が認められる。そして、その痕跡は今日の轆轤技法では発生しないものであった。

その痕跡は粘土の紐を巻上げたり輪積みにしたりすると出来るものなのだから、はじめに基礎となる部分を輪積みにして、それを轆轤回転で引き延ばしながら成形したものになるというのが僕の結論であった。
同じ東海地方でも常滑のある知多半島と瀬戸や美濃では原料となる陶土の質が異なっており、知多半島の窯跡から出土する山茶碗と瀬戸や美濃の山茶碗では土の粒度に大きな違いがある。とりわけ美濃の山茶碗は高品質で成形の痕跡が残るものは滅多に見掛けないのである。

ところが陶芸家の青山さんは発掘品を見ている内に、その痕跡に出会い、それを調べる内に僕の昔の論文にも出会ったのだった。そして、自身の工房で古い轆轤を復元し、山茶碗に認められる痕跡と同じものが生じるには、どういう方法があるのかを実際に土で試みてこられたのだった。
その結果は瑞浪陶磁資料館の研究紀要に発表され、さらに近世初期の施釉陶器にもこの痕跡を見出しそれを復元することに成功している。今回の実演は、この一連の研究のお披露目であった。

青山さんの復元された作品と古窯から出土した製品に現れた成形痕跡はまったく同じものであった。
したがって青山さんの手法を採用すれば、その痕跡は発生し、今日一般的に行われている粘土の塊から遠心力を使って形を挽き出す手法では、成形痕跡は発生しない。

したがって、青山さんが実際に行った手法が、古代から近世初頭まで行われていた可能性は極めて高いのだが、それでは青山さんが行った技法以外の方法で、その痕跡は発生しえないという証明はできるのかというと、これはけっこう難問なのである。

実験考古学の議論になってしまうので、これ以上深入りはしないが、とりあえず考古学者ではなく作り手としての陶芸家が研究史に名前を残すレベルにまで到達していることは確かなのであった。
今回の話に即して言えば、より精度の高い轆轤が使われるようになり、人力や動力を利用してより強い遠心力を得ることが可能になって粘土塊から連続的に器を挽き出すことができるようになったのだ。その轆轤技法によれば、それ以前の技法で生じていた形の歪みや寸法・形状の不揃いといったことも解消できたのであった。

ところが、形の揃った完璧にシンメトリックな器が最高のものかというと、そうはならないところがやっかいなところで、歪みや撓みにこそ大いなる魅力が潜んでいたりするのだ。陶器の器から受け取る暖か味なんてのも、そこら辺から立ち昇ってくるのに相違ない。

写真が発達して肖像画が消滅したかといえば、さにあらずであろう。故人の姿を忠実に残すという点では写真に分があろうが、カンバスに描かれた人物が写真以上に雄弁であることは古今の名画が証明している。
従来にない新しい技法を開発したとなれば、その技法で新しい製品を生み出すことが出来る。それは新しい市場の開拓につながり産業としての発展へと向う可能性があろう。ところが、過去に存在した技法は、その後、見捨てられ忘れ去られたものである。

さらに、カラー写真が一般的になった今日においてすら、モノクロ写真の表現力が捨てがたく魅力的でもあるように道具や技術の進歩は、かならずしも芸術性と連動するものではない。そして、過去に生み出された作品が今尚その美を保ち続けているとすれば、忘れ去った技法を復元してみることは充分に有意義なことであろう。わずか数十年前の最新式の技術で作った新しさ満載だった作品の陳腐さを見れば、新しさの寿命もたかが知れていると言わねばならない。

その実演が一段落し、何か質問は?という段になって会場から、その技法を解明したことで美濃の陶芸にどういった影響があるのだろうかという、なんとも即物的な問が発せられた。
技術の進化は、不可能を可能にするという形で進む。機能的に劣ったものを生み出すことを進歩とはいわない。そして、劣った機能の道具や素材で作った作品が魅力的であるとするのであれば、それは作り手の技能が優れているということになろう。

モノクロだったらどれも魅力的な写真になるというものでもないように、古いものにも駄作はいくらもある。とすれば青山さんの復元した技法を用いればどれも良い味が出るというものではない。とすれば、大昔の作品が持っている魅力がどこにあるのかをキャッチする力が優先されるということかな。

それにしても、この国の陶芸は複雑に成熟したものである。現在ある轆轤でも、それなりに歪んだ器を作るのは容易だ。しかし、その歪みにやどる不自然さといったものが見えるのもまた否定しがたいところである。その微妙な自然な歪みの頂点が桃山陶や李朝の陶磁器の領域であろうが、青山さんはそこに焦点を当ててくるのだろうか。楽しみではある。