家から5分来るだけで、時間の流れ方が違っていると彼は言う。そして、その通りだろうと感じた。晩秋の竹林を歩く。孟宗竹の藪、真竹の藪、淡竹の藪それぞれに手が入っている。

ここ半年ほどだったか、知人の竹林を触らせてもらっているという。朝から汗をかいて竹を間引く。そして、竹林の根に陽光がちらほら差し込むほどに。そこに地形が蘇ってくる。

羊歯があり、藪千両があり、蘭の仲間があり。ひっそりと日陰で息づいていた植物達も元気そうに見える空間だ。

そして、なんとも清々しい。道路には車の轍が走るものの未だ舗装されていない土の道だ。道端に雑草が蹲るように茂る。つる草は葉を落とし始めた。これから椿を植えるのだという。

一昨年、昨年と古い工場を改築したギャラリーで苔の生えた甕やら窯道具やらに椿や葦をあしらって、自作の器と友人の書を取り合わせるというコラボレーテッド・インスタレーションとでも言うのだろうか、自らの原体験的空間のプレゼンテーションをやっていた。

そして、竹林で遊び、薪窯に突っ込んで行った。そこから生れた中世陶の破片のような器が見る人の目を見張らせる。なんでもない陶片のようでいて、たぶん彼にしかできない味を出しているからか。

真似ると危険というメッセージを陶片の器は発信しているかのようだ。そして、使い手を選ぶ器だと主張している。使い手は市場で魚を見て野菜を見て、肉を見て瞬時に料理と器をイメージする人を求め、その美の味を愉しむ相手を求める。

そして、その陶片に見合う酒器を求め、酒を求める。贅沢な器であろう。百均にはもっと器らしい器が整列している。そして、百均では商品たりえないのだが、それゆえにこそ贅沢な器としてある。現代とはそういう時代なのであろう。

900年の間、ひたすら土を焼き締めてきた土地でこそ、生れるものがあるんだと彼はいう。その、焼き締めてきた時間がそこら中の土地に刻み込まれているのだと。たしかに彼が竹を切り竹林に空気を通し、陽光を導くことで見えてくる人々の足跡がある。

降り敷いた竹の葉を通して小さな畑や枯れた溜池や小道や水瓶。そして、時間だ。その時間を感じたときに伝統が形となって蘇るのかもしれない。

陶片の僕、陶片僕。偏屈な器であり、やっかいな器なのかもしれないのだが、なにかがありそうな予感だけはひしひしと受けるのだった。ちょっと愉しみだ。プロデューサーも桜紅葉のように燃えている。

ちょっとコピーライターである。

そう、冨本泰二からは、目が離せない。