高野山 | ||||||||||
新緑の季節、初めて高野山に出掛けた。今年の春の連休は景気対策事業とかで休日高速道路は、どれだけ走っても1000円なのだという。ただし、ETCという機械を搭載した車両のみという制約がついている。 車の運転はそれほど好きではないし、世はこぞってエコロジーを推奨しているのに不景気になると何処吹く風とでも云わんばかりの政策が罷り通り、案の定どこもかしこも渋滞で無駄にCO2を撒き散らしている始末だ。 当方、健康維持のためにできるだけ歩くことを心がけてもおり、往復で2万円弱の交通費を掛けながら、名鉄・新幹線・地下鉄・南海電車で高野を目ざしたのであった。そして、高野山上にまで溢れる自動車を見れば、その選択は明らかに正解であった。 |
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関東ならいざ知らず、関西の土地勘は今一頼りなく、京・奈良ならまだしも、紀州ともなると所要時間の見積もりすら心もとないのだが、そこはそれネット社会の恩恵に浴することができる。実に有りがたみを感じるのであった。 大阪も河内長野あたりから車窓の景色が変わり、ぐっと緑が多くなる。そして、千早口なんていう駅の名を聞きながら、南朝・吉野に想いを馳せているとまるで高原鉄道のような趣を呈してくる。 たどり着いたのは極楽橋駅。ここで電車を降りて、さらにケーブルカーに乗り換えて急峻な斜面を登ると、そこが高野山駅であった。しかし、ここはバスターミナルに過ぎない。金剛峰寺を中心とした真言宗の拠点は、まだまだ遠い。 南海電鉄の開発経費を思えば、わからぬでもないのだけれどバスに乗らないことには、相当の時間のロスを覚悟しなければならない。しかもバス専用道路は人も通れないという。しかし、当方は歩くことも目的の一つなのだから、駅の売店で柿の葉寿司を購入、それをパクつきながら一人山上の道を歩くこととする。 |
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そして、1時間ほども歩いて大門に到着。そこから山上の街を金剛峰寺へ。せっかくだから霊宝館にも入る。大日如来と阿弥陀如来が半々くらい展示されていたのには、いささか驚き。もちろん阿弥陀如来が則、浄土教という訳でもないが、平安末期の真言宗は覚鑁により大日と阿弥陀を同体とみる新義真言が生まれている。 山上から見通す景色は、なんとも浄土であった。叡山も確かにはるかな山並みではあるのだが、高野のそれも実に良いのである。もひとつ先の熊野が恋しくもある。標高は800m台ながら、これくらいの山がなんとなく身に馴染むような気がする。 そして、帰路は近世の主要な登山道であったという道を歩いて降りることにした。ケーブルカーで5分程度の距離を1時間以上は掛かったのだが、それなりに空海の気分を味わうことができた・・・みたいな。 今回は時間の都合で、奥之院まで辿りつけなかったが、奥之院からは経塚が検出されている。弘法大師空海の墓所でもある聖地が、浄土として新たな意義付けが行われたといえようか。 |
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経塚には、しばしば五輪塔や宝塔が埋められ、経筒には明らかに塔をイメージした造形が採用されている。天台の根本経典たる妙法蓮華経は、造塔供養の功徳を説くことで知られているが、このあたりに経塚と天台宗との結びつきも窺い知れよう。 天台浄土教なるものも良源・源信の時代に成立・盛行していたというから、高野聖の活躍よりかなり早いことになる。もっとも常滑の焼物が経塚に用いられるようになるのは12世紀に入ってからなのだから、天台・真言の区別などあって無きが如しということだ。 浄土が希求され、様々な形の行為や造詣に大きな影響を及ぼしているのは、人間にとっての死が、生物学的な意味での死とは著しく異なった文化的な事象であることの証であると思う。 その死に与えられた意味群こそが人間の死であって、その肥大化した意味群の延長線上には当然のこととして、死後まで想定してしまうのが人間なのであろう。末法が信じられ、念仏門の完成において浄土は多くの大衆の手に近づきながら、またかなたへとすり抜けて行ってしまった。 青い鳥を高野山で見たということかな。京都・東西本願寺の巨大な伽藍を見て感じるより新緑の山々に青い鳥を幻視したのは、自分が現代人であるからなのか。中世初期の人々と共振していたからなのか。 |
常滑市民俗資料館 |
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往復書簡
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