常滑元功斎のリンゴ
縄文時代の人々は日本列島のいたるところで土器を作っていた。弥生時代においても、古墳時代においても、土器は各地で作られている。

土器より高温で焼く陶器は、窯という高温焼成施設を必要とする。さらに、その高温焼成に耐えるだけの陶土が求められることから、土器に比べて広がりはやや狭い。

それでも奈良・平安時代ともなれば仏教寺院の広がりなどともからんで全国的に須恵器と呼ばれる陶器が焼かれるようになっている。

基本的に質を問わなければ、日本列島内ではどこでも陶芸が可能だということを遺跡は証明している。

そして、江戸時代には大名のステイタスシンボルとしてのお庭焼から、領国経営の一環としての陶磁器生産にいたるまで、全国レベルで質の高い陶磁器生産が展開されたのだった。
この流れが収束し主要窯業地が突出するのは、スポンサーであった藩が消えてしまったことや、中央集権的な構造に組みこまれるだけの生産力や流通ルートを確保できなかったところが淘汰されていったということであろう。

価値基準も市場構造も流通機構も中央へと主体が移り、そこから地方へと総てが配分されていく。いまなお続く明治以降の近代化の流れだ。

常滑は江戸時代まで甕や壷といった大物の産地であった。そして甕師は美意識をもって甕を作っていない。彼らにとって良く焼けているか否か。歪みや亀裂がないかあるか。そして、大きくなればなるほど難易度が高いという程度の基準で評価が行われている。

つまり、質のレベルが総てであって装飾や造形の技巧は評価の対象外になっている。もっとも稚拙な技巧の作者は一人前の甕師にはなれないのだが。

領内の常滑でも焼物を造っていると知った藩主は、どのようなものか一度見たいから持参せよとの申付けであった。尾張徳川家7・8代の頃というので、時は宝暦・明和といったところか。江戸も後期だ。

藩主の命とあらば、常滑でも名手の誉れ高い北条村の渡辺彌平が選ばれて酒器やら茶器やら花器といったものを作って献上したのであった。

彌平は見よう見真似で作ったものか、当時の田舎茶人の教えを請うたものか、はたまたお役所の方で指図書でも添えて指示してきたものか、そのあたりの詳しい経緯は不明のままだ。

藩侯はロクロを用いず手捻りで作られた作品をいずれも雅致あるものと賞玩、しかるに作者の名が無いのを惜しみ、元功斎の名を下賜したのであった。常滑に在銘作家が生れた瞬間である。

「大概在名のものは上手に属し、弱くなり、且つ作為が甚だ著しくなる。あの偉大な光悦の、偉大な[鷹が峯]の茶碗は、個人作品中最もいいものの一つであらうが、朝鮮の[井戸]の茶碗に比べると、どうしても勝ちみがない。あの一へらの削りや手作りの高台には、強さはあるが尚作為が残る。」『工芸の協団に関する一提案』柳宗悦 昭和2年より

  
茶の湯の美において雅致ある美の最高峰は、すべて無名・無銘の作品で占められる。大名物だ。名物の内でも作者の知れるものは、ごく僅かであろう。

中国においては名品を制作するために各工程の熟練工を選び、その技術の粋を一品の器に投入するという高度な分業生産体制が官窯などで採られている。大名物の無銘性はここに起因する部分も少なくないであろう。

もっとも柳も指摘している通り、村田珠光の好んだ青磁や白磁は、中国でも民窯で量産されたものであった。さらに、色絵や染付においても桃山期の茶人は民窯の放胆な装飾や粗野にも見える斑を好んで選んだ。

スワトーや宋胡録(すんころく・スワンカローク)などなど。柳の指摘する李朝の「井戸」もこの類だ。南蛮島物なんて産地すらわからないものだが、自らの美意識に従って名品を選択したのだった。

ところが、江戸も後期となれば、無銘の美を最高峰に置いた桃山茶人の美意識は喪失し、名品は名工の手になるという共通認識があったのであろう。ただし、美の規範は無銘作品に置かれたままだ。

ここに南蛮島物の味わいをもった在銘作家、渡辺彌平・元功斎の誕生となったのである。そして、そこから常滑の工芸は在銘の方向に進むことになる。江戸時代の常滑の作家は中央において無名であった。明治にあっても。大正においてすら常滑の工芸は無名に近いのである。

水甕や漬物壷は工芸とは見なされず、徳利などもまたそうした見方をされてはこなかった。今日、それらは時に在銘品より、はるかに美しく迫力を持った造形であるという見方は成立する。

しかし、その見方は柳が主張するように下手物として工芸の範疇に入っていなかったものの復権であって、きわめて近代的な視点だと思われる。だが民芸運動によって復権するには常滑は在銘作者がすでに多く存在していたのだった。東海ローカルではあっても。

「生活を離れた世界に美を求めるより、生活に即する世界に美を探らねばならない。用の世界こそ最も眞實な美の領域である。」「簡素な尋常な生活と、健全な誠実な工芸とは一体である。」「もしざらにあるものが悪いなら、それは社会がどこかで工芸の正常な生ひ立ちを邪魔しているからである。多と廉とが粗悪と結ばれるなら、それは社会の恥辱であると云ってよい。」『民芸とは何か』柳宗悦 昭和6年より

残念ながら、現代日本はある面で著しく不健全な社会になっている。それ故にこそ民芸への憧れは強い。そして、そこがユートピアであっても、もはや戻り得ない失楽園であることも現実なのだろう。在銘というリンゴを食べた元功斎を責めることなどできるはずもない。