鎌倉にて  
 梅雨明けが待たれる7月半ば、仕事の関係で仲間と鎌倉を訪れた。二年ぶりだろうか。
鎌倉には、もう何度も来ているのだが、不思議と北鎌倉の地に足を踏み入れたことがなかった。そして、幸いにして今回の訪問先は、その北鎌倉から歩いていける場所であった。

 北鎌倉ということならば、やはり円覚寺くらいは見ておきたいと集合時間より30分ほども前に到着できるよう、家を午前6時半に出た。そして、北鎌倉の駅に降り立ったのが9時半少し前。時間は充分だ。
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 鎌倉時代の禅文化について、少しづつ本も読み初めており、これまでとは見え方も違っているのだ。そして、ここ数年は色々な庭を見てきている。その目で禅宗寺院の庭を見ると、これまた、いろいろ考えることがある。

 鎌倉の研究者の方々に平泉から合流した研究者も加えて、資料の調査をさせていただき、夜はまたアルコールなども入れて、最近自分が考えていることなど、あれこれと語る。禅の美だとか、浄土のデザインだとか。
 話はツウカアで通じては行くのであるが、その中身に関して、それはちょとといった指摘が少なからずある。たしかに、それはそうかもしれないけど、それを持ち出されても、それをどうやって証明するんだ。という点に大きな疑問が残ることになる。

 それでも、今の自分にとって、もっとも興味の惹かれるところなのだから、力説するのだし、反論に再反論するという形で、実に時間を忘れるのであった。まず、こんな話題で盛り上がれる仲間がいることに感謝しよう。
 
常滑市民俗資料館




 その一方で、仏教や歴史の話題が伝わりにくくなっている現実も否定しがたく進行しているように思えてならない。歴史と伝統ある何々というフレーズは、相当に陳腐化しているのではないだろうか。

 こんな話で盛り上がるのは、自分が歴史系オタクの輪の中にいるからなのではないのだろうかという不安を払拭できな
 往復書簡    


東さんの抽象作品について
「侘びさび」その他
no.3 補足の返信
「侘びさび」no.3 補足
「侘びさび」no.3
 「侘びさび」no.2
「侘びさび」


















 
 おそらく敗戦後の日本のバックボーンになったのが、世界に類をみない伝統工芸の存在だったのだと推測している。それまでの西洋美術を取り込んだような近代陶芸から、伝統工芸展というような公募展が全国規模で展開されるようになったのも、その証ではないだろうか。
 
 モノ作り大国というセルフイメージを確立するためにも歴史と伝統に支えられた高度で多様な技術を受け継いで来たのだ、という自負が重要な要素であったのだと思う。しかし、現在のモノ作り大国は、それを高声に叫ぶほどに、その実態が空洞化していることを感じずにはいられない状況だ。

 常滑に帰って、近年ずいぶん淘汰されてきている急須の作家さんとあれこれ話し、彼もまた歴史と伝統の御題目ではなく、その中身をもう一度見直す必要性を感じ始めてきているのだと言われる。お力になれるなだば、どれだけでもとは言いながら、自分の職場の存在意義も問われるような昨今である。 
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