常滑市民俗資料館
常滑市民俗資料館
若手作家陶芸塾の出現
常滑の若手作家が陶芸塾という名で勉強会のようなものを開いていることを春先に耳にしていたのだが、7月半ばになって資料館で開催したいという依頼をうけた。

その講師も引き受けたのだが、これまでは実作をともなう内容であったのが、今回はお勉強の性格が色濃く、参加者も少なめであった。

企画したのはかつて陶芸研究所の研修で僕の講義を聞いており、それから10年以上が過ぎて、やはり歴史的な知識も必要だという認識に至ったのであろう。
自分は自分の暮す町の歴史など関心がなくとも、外に出て行けば、その先でいろいろと尋ねられ、場合によっては逆に教えられたりする経験を積んできたに相違ない。

まるで日本の歴史を外国人から尋ねられ、しどろもどろになって冷や汗をかくというパターンのローカル版で、それでも、やはり知っておいた方がいいという結論に至ったのなら良としようか。

常滑の若手作家たちが物つくりをテーマとして集まるのは80年代以来絶えてなかったことではある。時代は群れることから個の時代へと移り変わっていた。

そして、今、群れて新たな展開があるのだろうか。かつて、群れる事は新しい流れに接することであったように思う。そして、メダカが群れて一つ方向に進むように時代の様式を造ってきたのであろう。
メダカがブラックバスになって、もはや群れても共食いが始まりそうになるだけだと相成ったかどうか。ながく群れる現象はなかった。そして、その間の時代様式も認識することはできない。あえて言えば勝ち組と負け組の差が明瞭になったということかもしれない。

淘汰の時期があって、やがてまた新たな流れが生まれてくるのだろうか。伝統的な窯業地では、最近、少しずつ若手のグループが立ち上がってきているという話を耳にしている。バスからメダカに戻っただけでは意味がないのだろうが、先行きは不透明としか言いようがない。

どうしようもないまでに成熟してしまった陶芸の現在に新たな地平が存在するのかどうか。ブレイクスル―したと思えば、そこはデジャブの世界というあたりが予想されるところではあるが、思えば歴史はその繰り返しなのかもしれない。