はるか30年以上前のことなのだが、高校生だったころ、大野寛次という先生に連れられて、この天竺の窯を見にきたことを思い出す。そこには、大きな声でがなるように喋る鯉江良二がいた。そして、その頃若手だった陶芸家が集まって薪窯を焚いていたのだった。 |
「火事が心配でだれも火をつけないので、俺が最初に火をつけてやった」と鯉江良二は、かつて言っていたのを思い出した。火を見ると血が騒ぐタイプである。焼物の道に入らなかったらどうなっていたか。 |
その天竺の薪窯で焼いた数茶碗を、これまた20年ほど前に名古屋は杁中のギャラリーであった「えっ!これが!鯉江良二展」という企画で購入した。ずいぶんおとなしい作品で、おまけに使い勝手が良いのであった。 |
降り返ってバブルであったと気づかされた90年代にRYOJI・KOIEはスターダムに乗っていた。個展では行列ができ、作品を見ずに買っていく連中が押し寄せたのだった。 |
それから、あろうことか良二さんは県立芸術大学の助教授になり、講義もろくにせずに教授になり、定年をむかえるまで勤めたのだから、恐れ入谷の鬼子母神である。一枚も二枚も上手であった。 「あんたに、ちょっと鯉江良二について書いて貰おうかな」と言われて、「常滑にいれば天下の鯉江良二も保示の明治屋の良チャなんだから、いつまでたっても仕事で評価されないんじゃないの。案外、そこらがエネルギー源になってるのだろけど」と生意気をかましたら、「ぜんぜんわかっとらんな」と振られた。助教授以前だ。 そして、鯉江先生は奥三河からさらに奥へと進んで岐阜県の上矢作に工房を構え、出・常滑をおこなったのだった。バブルのころだ。スペインで存在をアピールし、行列ができる前衛陶芸作家が出したのがお茶碗であった。エネルギーは尽きない。 |
バブル後に出てきたアルミを溶かしてぶちまけるアクションペインティングみたいな作品はあまり好きではなかったが、最近、常滑のギャラリーでみかける花瓶など、やはり良いなと思わせるのだ。置場がないので買わないでいるが10万円代の価格であった。高くない。そして、かなり渋い系である。 この渋くて僕程度の人間でも、欲しいなと思わせる作品ができてしまうところに日本の前衛の限界と器用さがあるのであろう。 いま、天竺のコンテナには息子の明が住みついて大人しい湯のみなんぞを作っている。アキラが宇宙のエネルギーをすべて取りこんでしまうのは何時のことなのだろう。 |