卒業の季節


プリウスの燃費・回収エネルギーメーターが20q/1Lをらくらく越えるようになった。そして、梅が咲き、コブシが咲き、木蓮の花が開いて染井吉野を待っている。すでに、鶯は囀りを始めた。3月も21日、春彼岸である。

息子が通う高校の卒業式に来賓として出席したときは寒風吹きすさぶという頃で、今からはおよそ想像できないほどの寒さだった。

翌週、娘の中学校の卒業式に保護者として参加。この時も体育館ではストーブが幾つ
も並んでいた。梅は開いていたが。そして、涙腺は緩むばかりの父である。



常滑陶芸研究所という名の機関が2010年4月に実質的な活動を終わるという計画が発表された。そして、ここで1年間の研修を受けた作家の卵の終了制作展を見たのが14日だ。
前日の夕方、スーパーで買い物をしていると10年ほど前に研修生だった涼に呼び止められた。「今、文化会館で終了制作展やってますよね。」「ああ、でも俺は行かないよ。」「えー、かわいそう。」「だって、半人前の仕事見て、どこが面白いよ。あの時の展示会を見とけばよかった。と俺に後悔させるような作家になって欲しいわ。」

てな会話をレジの前でやってたら当の研修生がいつもと違う化粧のきまった顔で登場。おまえら付き合ってんの?という問いを発しそうになって野暮な台詞を飲み込んだ。


翌日は名古屋で午後から会議。その翌日は勤務なのだから文化会館には足を運べない。なんて行けない言い訳を云うのも、これまた野暮だし早々にじゃまたねとレジを済ます。ポケットから畳んだレジ袋を取り出す僕の姿を見て涼が笑った。指をさすんじゃねえって。



帰路、プリウスのメーターを見るとそろそろ給油が必要だ。翌朝、金・土曜日は定価−3円というセルフスタンドまで足を伸ばす。と、なんとか文化会館によっても午後の会議に間に合いそう。
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結局、文化会館に。僕を見つけて昨夕の娘がキャーとばかりにやってくる。ハグハグのシチュエーションなのだが、先生の手は両方ポケットにイレッパだ。多少の照れと見る人によってはセクハラと映らぬものでもない。小心者だねえ。



も一人の娘は落ち着いている。しかし、器物の出来が良くない、というか普通に過ぎるのであった。ちょっと御免なさいのきつい批評。見ればみたで黙ってられない性分なので、どうもこの手の展示は苦手なのであった。



ここ20年ほども研究所の研修生に陶芸の歴史などを講義してきたのだが、それも終りになる。まだ来年一年残っているのだが、現在いる研究所のスタッフで研修ができるようになるべきと考え来年の講師依頼を固辞する。



1961年、昭和36年に常滑の陶芸研究を行う施設として開設された研究所は50年足らずの歳月を経て役割を終えようとしている。建設にあたっては当時の伊奈製陶株式会社(現INAX)の社長であった伊奈長三郎氏が自社株を常滑市に寄付され、運営も長くその配当を元にして特別会計で行っていた。
常滑市民俗資料館
その伊奈氏に資金を提供させたのは(故)澤田由治氏であり、ご自身長くこの研究所の所長であり顧問を務めてこられた。鬼籍の人となられたのが平成6年だから、すでに15年も経っていることになる。

陶芸研究所の研究は一に掛かってこの澤田氏の研究であった。その後の所長は何一つといって研究成果を残してはこなかったといっても過言ではない。そして、予算を一般会計に組み入れて研修制度という名の作家養成制度を創り今日を迎えたということになる。

養成制度は統廃合で廃止となった旧常滑高等学校の施設を利用し、陶業試作訓練所という既存の機関と合わせて存続させ、研究所の施設とコレクションは資料館の別館という形で展示施設に特化する計画だ。時代が変わっていくのを強く感じる。そして、陶芸という戦後文化も大きく変わろうとしているように思えてならない。
常滑市民俗資料館





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