西方浄土 | ||||||||||
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常滑の焼き物が確立した12世紀は古代から中世への転換期であった。その転換期に出現した常滑の焼き物の革新性をかつて「赤い甕」として論文にしたことがある。それまでの古代の灰色の甕から脱皮し褐色の焼き物としての常滑の焼き物が、その後の日本の焼き物の流れを変えたのだという論旨で、今でもたまに参考文献に使われることもある。 | ||||||||||
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その褐色への指向の背景に王朝末期の工芸に顕著となる過差奇巧という傾向の反映を窺い、より直接のモデルとしては日宋貿易によってもたらされた褐釉陶器の四耳壺などがあったのであろうというのが結論であった。 さて、そして浄土と赤色との関係をこれまで何も言わず、むしろ経塚という宗教遺跡に常滑製品が用いられることなどから常滑焼の成立期には浄土思想が大きく影響していたのだとしてきたのだった。しかし、この頃雑誌の記者と話をしていて赤といえば夕焼けに繋がり、夕焼けはもちろん西の空に輝くのであるから、西といえば西方浄土の阿弥陀仏に繋がっていくのだということに思いいたった。なるほどそういうことかもしれない。 |
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しかし、これは単なる想い付きのレベルだ。現実に12世紀の常滑焼をみれば、けっこう灰色系の黒っぽいものも焼かれているし、それらも平泉あたりで消費されていたりする。これこそ浄土の空間だという場所に高い確率で選択的に赤い地肌の焼き物が用いられているのだと立証できたとき一つの学説になる。試みる価値はあろう。しかし、問題は資料の色調に関する情報は紙媒体ではとても乏しいということだ。 そして、さらに東方には薬師如来の瑠璃光浄土がイメージされ、南方には弥勒浄土やら観音菩薩の補陀落世界、そして、北方にも釈迦如来の浄土が設定されているのであった。 |
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常滑市民俗資料館 |
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一般的に浄土といえば阿弥陀浄土であり、平安時代の摂関期以来貴族の心を捉え続けたのも西方浄土だ。御堂関白藤原道長の臨終の話は史実かどうか、ちょっと専門外の分野だが栄華物語の作者と目される赤染衛門にとって阿弥陀如来の背後に夕焼けの光が差し込む光景は、まさに西方浄土のリアルな光景だったのではないかな。 | 往復書簡
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