極楽浄土が信じられたころ
 この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思えば

・・・・とは御堂関白太政大臣藤原道長が娘の威子が後一条天皇の中宮に立ったときに詠まれた歌だという。これで道長は3人の娘を一条、三条、後一条と続く三代の天皇の中宮としたのであり、後一条天皇は娘、彰子が生んだ道長の孫なのだった。



その道長もそのころから体調不良となり翌年には出家し法成寺の創建に情熱を燃やした。そして法成寺の阿弥陀堂には丈六の阿弥陀如来が本尊として祀られたのであった。身の丈一丈六尺は4.8メートルである。
上品上生から上品中生、上品下生、そして中品上生から下品下生まで、それぞれの極楽往生を導く九体ということになる。道長はこの阿弥陀堂で阿弥陀仏の前に北枕で西向きに横たわり僧侶の念仏が響く中、阿弥陀如来の手に結ばれた糸を手にして臨終を迎えたのだという。万寿四年1027の十二月のことである。



その道長は、また寛弘四年1007に吉野金峰山に妙法蓮華経、無量義経、観普賢経、阿弥陀教、弥勒上生経、弥勒下生経、弥勒成仏経、般若心経の経典を自ら写経し、地下に埋めて経塚を造営しているのである。



吉野に祀られる蔵王権現は釈迦、観音、弥勒が合体して垂迹した神とされるのであり、ここでは弥勒が浄土と深く関わる。弥勒浄土に経典を埋めて阿弥陀仏の極楽浄土に往生するとともに、弥勒菩薩が法滅の後、仏としてこの世に出現したときには極楽からこの世に来て、自らも仏となろうと願っているのだという。
常滑市民俗資料館
道長の息子、関白頼道が宇治川のほとりに平等院を営み、丈六の阿弥陀如来を祀り、その前面に浄土式庭園を配したのは永承八年1053であり、都の貴顕は末法の到来を実感し始めていた。

そして、そのころ東北の地では前九年の役が繰り広げられ、後三年の役を経て藤原清衡以下三代の平泉文化が花開くのであった。平泉といえば中尊寺、そして金色堂ということになる。清衡もまたその本尊に阿弥陀如来を選んでいる。天治元年1124の創建。
道長の息子、関白頼道が宇治川のほとりに平等院を営み、丈六の阿弥陀如来を祀り、その前面に浄土式庭園を配したのは永承八年1053であり、都の貴顕は末法の到来を実感し始めていた。



そして、そのころ東北の地では前九年の役が繰り広げられ、後三年の役を経て藤原清衡以下三代の平泉文化が花開くのであった。平泉といえば中尊寺、そして金色堂ということになる。清衡もまたその本尊に阿弥陀如来を選んでいる。天治元年1124の創建。



清衡に続く基衡、秀衡父子によって建てられた毛越寺には、これまた平等院なみの浄土式庭園が作られているのであった。本尊は薬師如来だが、これがどうして阿弥陀如来の西方浄土に対して東方瑠璃浄土に日光・月光の菩薩を従えている。
常滑市民俗資料館
そして、法然・親鸞と続く専修念仏の教団が力をつけるころ鎌倉長谷の地には巨大な阿弥陀仏が姿を現したのだった。



常滑の地で焼き物が生み出されたころの状況が、まさにこの浄土と末法の時代であり、数々の優品が生み出されてきたのだが、今や浄土をリアルに描くことなど僧籍の人間でも無理ではなかろうか。



黄金に輝く阿弥陀如来が現れても、それに遭遇して無常の喜びというか、そこを目的として人生のすべてを捧げることなどできようはずもない。仏像を見て、建築を見て、庭園を見て、その美しさを感じることはできるのだが、その世界が人生の究極とはならないもの。