平 泉  

残暑の中、奥州藤原氏の平泉を訪ねた。北上川の氾濫を防ぐ堤防道路建設計画によって柳之御所跡という遺跡の調査が始まったのは20数年前のことであった。そして、その調査によって大量の常滑焼が、この地に運ばれていたことが判ってきたのだった。

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そして、この20年ほどの間に幾度となく平泉を訪れているのだが、幾たびに新鮮な驚きをうけるのがここだ。今回は数年前に熊野三社の移転工事にともなって発見された窯跡の出土品を中心に見せていただいた。


焼きそこないのかけらなのだから、こんなものを見て驚嘆するのは、異常な人種に属するのであろうが、その素材、形態、技法、そして装飾、さらには施設の特徴などなどいかなる系譜に連なるのか実に興味深く、そして簡単には答えが出せないもどかしさ。

平泉といえば中尊寺であり、毛越寺である。もちろん、観自在王院跡や無量光院跡なども欠かせない。兵どもが夢の跡なのだが、中尊寺が山上の浄土とするなら毛越寺の浄土式庭園は水辺の浄土ということになろうか。


既に浄土については繰り返し書いており、いささか気が引けるのだが、山上の浄土の代表が吉野金峰山であり、水辺の浄土のそれは宇治の平等院になる。吉野の山中に経塚を営んだのが關白藤原道長であり、平等院は道長の土地に頼道が営んだのであった。

中尊寺の山中には無数の経塚が営まれているという。その経塚に外容器として用いられた陶器の壺は常滑と渥美で焼かれたものが大半と推測される。今回の調査でも柳之御所から検出された陶器片を数多く見せていただいたが、あらためて平泉の焼物好きを認識したのだった。
 



山上の浄土に埋経することも道長はいち早く行っている。平泉に出掛ける3日前、奈良の博物館を訪れたところ、偶然にもその道長が埋納した金銅製経筒が出展されていたのに出会った。日記に記録されており、さらに経筒の銘文にも刻まれていることからまごう事無き道長の経筒なのだった。


摂関期から奥州藤原三代にかけて全国的な広がりを見せる山上と水辺の浄土は、その後鎌倉幕府の開設とともに急速に変貌していくのだから、これがまた面白い。念仏門の隆盛と同時に浄土が変わるということなのだろう。阿弥陀佛の遺産を不思議な気分で味わうこのごろである。
 常滑市民俗資料館




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