「侘びさび」

by nakano
東さま

> たまには、幾つかのテーマについて投げかけたものに、返答する
> という試みは?
> 息抜きにもなりますし、また違った空気が流れてリフレッシュするかも
> 知れません。
> 例えば「侘びさび」についてなど、軽いテーマや重いテーマいろいろ
> ありです。

どうなるものか、やってみないとわかりませんが、東さんとの二人で
あれば、僕が教えていただくスタイルがありがたいですね。

漆芸に「侘びさび」的な美って求められているの? って愚問かな。

9/29 中野晴久より
返 信(azuma)
中野  さま
 
> 漆芸に「侘びさび」的な美って求められているの? って愚問かな。
 
実は、僕の出身の鎌倉彫は、お茶の世界では「下手物」で
その筋では彫根来(ほりねごろ)と呼ばれているのであります。

 

 つまり、塗り物の世界では、「侘び錆」的表現の代表として
根来塗りがあります。それの彫バージョンということになります。
 
じゃ、どこが「侘びさび」的なのかというと、(もう、本題に入っちゃって
いますが)これは、僕の解釈ですが・・・・・
 
「侘びさび」とは何を指しているのかというと、それは「無常なる時」
あるいは只の「時間」でもいいと思います。
 
「侘びさび」を感じるというのは、過ぎ行く、変遷して常に一箇所に留まらない
時を感じることだと思うのです。
 
これは、日本人特有の感性の持ち方などといわれますが、それは
ちょっと違います。ヨーロッパの方々も充分理解できる感覚
だと思います。
 
以前、フェロロマーノに寄った時、「あっ、「侘びさび」がここにもある」と
驚いたことがありました。同じ様に向こうの方が感じているか
確認出来ませんでしたが、多分共有できる感じ方だと思いますね。
 
話を戻します。
 
「無常なる時」を「もの」のどこに感じるのか?というと、それは
僕らの場合、「自然」ということになります。
具体的には、ハカセに送ってもらった甕の画像からも伝わってくるように
 
 
 
甕を形作る土の粒子、一粒一粒と全体の質から自然を感じ、さらに
そこから、甕を構成する土(粒子)が何十億年もかかって出来ていることと、
またやがてその自然に帰っていくだろうことを総合的に感じること、そのことが
「侘びさび」だと思うのですが・・・・・・。
 
根来でいえば、使い込むうちに手ズレで上塗りが磨り減り、中塗りが出ている
ところに「時」を感じるのだと思います。
 
この自然観が、今までの日本人の拠り所だったと思います。これからその辺が
どうなるのかまでは分かりませんが。
 
ヨーロッパの方々も、アジア的な段階を通過しているので、微かにその辺を
理解できる方も居られるのでは?とおもいますが、彼らにとっては可也古い話し
になると思います。
 
更に言うと、人間の感性(表現)には対極的な要素が混在しています。
ちょっと乱暴な言い方で括ると・・・・・
 
その一つがキンキラ金の世界(装飾的世界.......日光東照宮が代表)。
もう一つが「侘びさび」の世界(ストイックでミニマル.........桂離宮が代表)です。
 
そして「侘びさび」はインテリ好み、あるいは文人好みと言ってもいいようです。
 
余程深い教養の裏づけがないと「日光東照宮は凄い!」とは口に出せません。
この辺のことが、以前ハカセに差し上げた美術手帳1987年「江戸ラビリンス」に
深く深く描かれていますので、是非もう一度ひも解いて頂ければと思います。
 
ところで、ハカセがお持ちになっている僕の作った大黒重ですが、あれは
「錆仕上げ」といって、今では僕しかその手法を使っていませんが、江戸では
結構使われていたもののようです。「錆」と呼ばれる下地(漆と土と水を練ったもの)
の段階を仕上げとして完成させているものです。勿論、当時からそれらは「下手物」
でありますし、今でも「下手物」です;;;;;
 
この「錆仕上げ」は、質感がとてもミニマルなので、これだけで勝負するととても
モダンに見えます。更に僕の場合そこに陶芸の窯の内側に付く煤を味付けに使います
(これは、企業秘密です、ってもうしゃべっちゃっているけど)。こうすることで「古び」を付ける
訳です。僕の作品のほとんどがこの仕上げ方で出来ています。
僕は、ポストモダン?なので当然、そこに装飾を入れます。そうするとミスマッチで
新鮮な世界が表現できます。
 
(つづく)
 
こんな感じで進めて行くのもいい感じです。
 
どうでしょうか?
 
東 日出夫 sugurome@jcom.home.ne.jp
 
返 信(nakano)
東さま
 
なるほどなるほど。根来などは、輪島に比べれば、いっかにも手抜きの塗りといった感じですよね。
それに彫りを加えていけば、未完の作品に彫りを加えた表現ということになりましょうか。
 
「過ぎ行く、変遷して常に一箇所に留まらない時を感じることだと思うのです。」というのは、完璧
な造形からは感じにくいものなのではないかしらと。
 
陶芸において、ゆがみ、ひずみ、ちぢれ、といった要素が常に「わびさび」には付きまとっています。
そして、色鍋島や古九谷、薩摩の金襴手などには、そうした要素が見られません。
 
大名道具の金蒔絵の数々などを見ると、また茶道具の棗なども色漆などを用いて繊細な装飾を
施していたりするし、作り手が「侘びさび」を目的化していたのだろうかというのが、ちょっと疑問で、
塗りの工程では、根来などは使っているうちに下地塗りが出てきたという、ある意味で粗雑な塗り
によって偶然現れたものですね。
 
春慶塗は大工が木目の美しさに惹かれて、それを活かす器を考案したという点では、漆器として
の未完を目的としているように思えますが、漆芸の外から生まれた点が引っかかります。さらに
木目の凄さってのは、せいぜい綺麗サビってところで、すごい自然で、時間かけているって感じな
のに一箇所に留まらない時を感じないのも不思議なものです。

(注 根来・春慶についてはネットから俄か仕込みした知見に基づいてい
ます。机や花台などで銘木の木目を活かした作品は、食器類の漆器とは、な
んだか異質な気がするのですが、新たな疑問です。)
 
また、漆器は伝統的にシンメトリーの造形ではないかという点が、歴史的に「侘びさび」から遠い
ところに位置してきたのかなと思うわけです。もちろん東さんの作品に非対称的造形があるのは
承知していますが、根来や春慶や鎌倉彫で意識的にクズシのフォルムを志向した形跡はあるの
でしょうか。
 
漆は縄文土器に既に施されていて、その朱色が自然を覆い尽くすような凄さがありますよね。
器物の表面をコーティングする素材としては不自然なほどのパワーを持っている。そして、その
素材の強い特性から脆さを内包する「侘びサビ」を抽出するのは、かなりな力技なのだと思う
のです。
 
日光のラビリンスは、青貝・螺鈿の華やかさと異質でしょうか?
 
ちょっと時間切れなので、問いかけのままで失礼します。
 
 
                    9/29 中野晴久より