常滑市民俗資料館
常滑市民俗資料館
常滑に戻って民俗資料館に勤め始めたころは中曽根行革の真っ最中であった。常滑市は翌年から8年ほど職員の新規採用を行わなかった。それから30年近くなって今、また行革大合唱になっている。

前の行革もそうであったように、いまの行革も行政改革と言いつつ、中身は財政改革である。その間にはバブル経済があり、バブル崩壊があり、失われた10年があり、聖域なき財政再建や骨太の改革があった。
カイゼンという名のコストカットが徹底され、人間の労力もジャスト・イン・システムに組み込まれて人材派遣が、いつでもどこにでも安価な労働力を提供できる仕組みになってきた。勝ち組企業は好調である。しかし、社員はなんだか不安の中にいる。

そして、行革は、すでに人件費の抑制以外に手がないほど事業予算は削減を繰り返してきたのだった。これほど時代の閉塞を感じたことがないように思われる。それでも、毎日けっこう美味しいものを食べているし、今のところ物質的な不足を感じてはいない。

鍋の中に水を入れて蛙クンを泳がせる。そして、ガスの火をつけて少しずつ温度を上げていくと蛙クンは、その温度上昇があまりにゆっくりなので、気がつかぬままにやがて茹であがってしまうのだ。というブラックな話は失われた10年から骨太の間に広がったように記憶する。

チーズを求めて彷徨うネズミの話も、これに似たようなもので、イチローは「変わらなきゃも変わらなきゃ」と言っていた。市役所は、つまり、この時期に変わらなかった結果がいまの状況なのだということか。

国もさほど変わらない台所事情なはずだが、消費税という打出の小槌がまだ機能しそうだけど、ここも行革とか構造改革とか言ってて、結局、ながいながい暫定措置を採ってきたみたいだ。しかし、ここもトヨタ・システムを導入して効率一点張りの組織になったら国民は安心できるのだろうか。

閉塞感きついなあ。
いささか酸欠気味の毎日を送りながら、お誘いを受けて松下弘之氏の個展に休みの土曜日に出向いてきた。焼き物は弘之で植物とコラボレートした作品のときには凡才という号を使っているそうだ。

そして、あれこれ迷って凡才作品を購入してきた。自然にいろいろな植物が芽を出してきますから、枯れたら次の作品が生まれてくるんで、気長に待っていればよいのだと教えられた。展示品の中には20年ものもあるという。

古典的な盆栽だと500年とか700年とか、にわかに信じかねるような年代を付けている作品もあるから、たしかに気長だ。それらは植物を枯らさぬように、肥料をどんどん与えて幹を太らせ、枝ぶりを細工して、と凡才スタイルとはずいぶん違っている。

それは、それで凄いものなのだが、凡才スタイルは今の欅が枯れても、次に草なんかが生えて、こんどは自分の作品になると言われれば、気楽に入りこむことができる。
ここ10年ほど、ベランダで夏はペチュニア系、冬・春はパンジー系、その間にいろいろな花を咲かせてきたが、そろそろ1年生草本から卒業する時かな。そして、草木から教えられることも多いという。

富本泰二さんも、山の中で実生の木を育てて、とてもいい作品を見せてくれるのだが、そのコンセプトも手を加えずに、勝手に伸びていく姿を味わうもののように思う。そして、その姿と常滑の土で焼きしめた素朴な焼き物がよく合うのである。

いささか酸欠気味の毎日を送りながら、お誘いを受けて松下弘之氏の個展に休みの土曜日に出向いてきた。焼き物は弘之で植物とコラボレートした作品のときには凡才という号を使っているそうだ。