生死と生命と神と  

縄文時代は土器生産があり、磨製石器を多用し、弓矢を用いた狩猟が行われており、定住性の高い大規模集落も形成されている。しかし、本格的な食料生産を行っていない。


新石器革命とされるほどに革命的であるのは、一にかかってこの食料生産であり、農耕・牧畜の開始によって画期が形成されるのであった。にもかかわらず、わが縄文時代は肝心の食糧生産を欠いた状態でほぼ1万年という気の遠くなるほどの時間を継続したのであった。


それを文化的停滞として文化の後進性と捉える認識は過去のものであり、そこの原始的な無階級社会のユートピアを想定することも現代人の勝手な空想に過ぎない。ただ、その食料生産を行わなくても充分に生活が維持できるほどの豊かな自然があったということは確かなのであろう。


食料生産は農耕と牧畜によって達成された。農耕は特定の植物の生命とそれを取り巻く環境を人工的に管理することで成り立つ。牧畜は動物の生命でそれを行うのだから、多くの動物を少ない人で管理するために去勢という操作が必要になる。
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中国では日本の弥生時代が始まる直前ころに相当する春秋時代に自ら去勢を施して後宮に仕えた宦官が登場しているというし。弥生時代の前期にあたる秦王朝が滅亡する契機を作ったとされる趙高も宦官であった。


そして、漢王朝を崩壊に導いたのも宦官勢力の専横に対する批判勢力の台頭であった。人間の去勢は、けっして管理しやすい人間を作ることにはならず、単に生殖能力のみを除去することであった。性欲は維持されることが少なくないというから返って厄介である。


生命は機械ではないということにも繋がるかな。始皇帝は不老長寿の仙薬を求めて方士を各地に派遣した。かの徐福も東方の蓬莱国を目指した一人だ。始皇帝の墓を護る兵馬俑は実にじつにスゴイの一言なのだが、そこにある異様な雰囲気はなんなのだろう。不老不死を実現してしまいそうなリアルさとでも言おうか。

思えば、エジプトのピラミッドや始皇帝陵の兵馬俑坑、日本の前方後円墳などなどに見られるように死はどこまでも際限なく肥大化する「顔なし」のようなものなのである。スラムドッグ・ミリオネアに出てくるタージマハルもそれだ。
旧石器時代の死は肥大化していない。ホモ・ハビリスの登場から延々と続く旧石器時代人は、氷河期の飢餓を何度もくぐりぬけていた。後期旧石器時代(オーリニャック期・マドレーヌ期)の洞窟絵画の素晴らしさは言わずもがなではあるが、その動物群の中には二匹一組の馬と雄牛が描かれ、そこから豊穣への願いを読み取ろうとすることは可能だ。


そして、同時期には小錦君をミニチュアにしたようなヴィーナスが生まれているのである。大地母神の登場だ。そして、その母はメタボリックどころの騒ぎではない。しかし、それこそが旧石器人の希求する神であったのだろう。死の肥大はみられない。


始皇帝より1000年ほども遡った殷の王墓からは首を刎ねられた人体が多数発掘されている。青銅器の副葬が有名だが、生贄が現実にあったことも忘れられないのであった。殷墟にあっては王の死に同道させられる生が存在したのだ。


始皇帝は焚書坑儒でも知られるが春秋時代成立の儒教は、葬送儀礼を重視し、祖霊を崇拝する儀礼を整えている。死者は魂魄にわかれて死後も暮らしているのであった。縄文時代が終って弥生時代が始まろうとするころの中国では死後の形が具体的になっていたのだ。
 
王は神の意思を民に伝えることが出来ることで王たりえた。饕餮(とうてつ)文は神を畏怖させるために生み出された文様で角や爪、牙を誇張した獣面だ。殷の青銅器にはしばしばこの文様が施されている。王の死と神はすでに繋がっているように見える。


人々を畏怖させ、生贄を求め、巨大な墳墓や神殿を築かせる神や王は、新石器革命の延長線上にしか成立しえないといえよう。そして、それはもはや大地母神のような、アニミズムの神々みたいな神ではない。


生物界の中では、明らかに異様なところに行ってしまったのだと言わなければならない。細胞が癌化して行くのに似ている。細菌も植物も昆虫も魚も鳥も犬も猫も同じ生命なのだが・・・・


「私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツでたはなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にある」「個体は感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかないのである。」
 常滑市民俗資料館




往復書簡    


東さんの抽象作品について
「侘びさび」その他
no.3 補足の返信
「侘びさび」no.3 補足
「侘びさび」no.3
 「侘びさび」no.2
「侘びさび」

「生命は、こうして、不可避的に身体の内部に蓄積される乱雑さを外部に捨てている。この精妙な仕組みこそが、生命の歴史が三八億年をかけて組み上げた、時間との共存方法なのである。」


「ところが、私たちは時として、その共存方法を逆回転させたい欲望にかられる。」以上「」は福岡伸一『動的平衡』2009木楽舎刊より抜書き。


すでに始皇帝の時代にエントロピーの増大から抜け出す欲望はマックスだったのね。 
 
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