淘汰されつつあるもの、そして…
常滑は大物(大きな焼物の意味)の産地である。カメ(甕)やら鉢やら壷などの大物を得意として発展してきた。
その大物技法はヨリコと呼ぶ粘土の棒を手元でひねりながら積み上げて行く技法が古くから用いられている。

その技法は衰退の流れに乗ってしまっているのだが、最近では焼物の浴槽をオーダー・メイドするような事業が立
ちあがって、なんとか生き延びているといったところだ。20年ほど前までは、このヨリコで大物を作る仕事がそこ
そこあって、お客さんがくると時々無理を言って見学させてもらったものだ。
近年は中国や東南アジアから買いつけてきた大物が常滑の店先に氾濫している。そして、日本人向けに味付けを変
えたものまで登場している。当然のごとくに安価なので、常滑の同種の製品を駆逐しつつある。

大物は指跡の押捺痕などが残りやすく、形も変形しやすいので、キッチリとした物を造るのは大変である。江戸時
代も文化文政期あたりまでは、目につかない甕の内面など、指の跡がでこぼこと残っているのが当たり前であった。

それが、幕末から明治にかけて凹凸のない内外面を持ち、形の歪みもない大物へと向かっていったのである。職人
さんの仕事は同じ物を人より早くこなす方向へと進化するのが常なのであった。

そのより早くという事が必要なくなるほどに需要が減少したとき、職人さんはより面白い作品を造ろうとはしない
ところが面白い。彼等は身につけた規範を崩すということを考えないようである。そして、その規範は機能性を第
一とするところで止まっていたように見受けられる。

進化の袋小路という例えがあるが、職人さんの仕事は、そのまま進むと機械で作ったのか人間が作ったのかが区別
できないような所へ向かうことになる。それは、あたかも写真と区別がつかないほど細密に描かれた絵画のごとき
ものと言えるのではないか。

しかし、機械成形と見まごうほどの崩れのない線や面で構成された焼物より、手跡の残る作品に魅力が宿るのはど
うしたことなのだろう。その魅力は日本的なという限定が付くのであろうが。
職人さんたちは、その魅力をしばしば拙いものとして捉える。未完成のものとして見るのである。そして、リクエ
ストがあると手痕の残る、いかにもの手造りを強調するものを造っていた。

この手造りを強調した作品は、まったく戴けない代物になっている。そこには不自然が宿ってしまうのであった。
意図した崩し、歪みほど嫌味なものもなかろう。

冴えたロクロで壷を挽き上げる様も見ていて飽きないのだが、そうしたロクロで大物を挽ける人はヨリコを使わな
いのが普通だ。

ロクロの遠心力では、とても挽き出せないほど大きなものや、円筒形ではないものを造るときに止む無く使うのが
紐造りという技法だ。

ロクロの方が容易に職人的完成度の高い形や器表を得ることができるのだから。ロクロ職人も寸分違わず同じ物を
人より早く挽けることを腕の良し悪しの基準にしていた。そして、そうしたロクロ職人が急速に減っているのが現
状だ。
機械が造ったものと同じほどの手造りという小路に入ってしまった。それでも尚、手造り神話の好きな我等日本人
の中には、機械造りのような手造りを好む人も残っている。でもそれは工場の職人さんの仕事ではなくなってしま
ったようだ。

先日、かねて上手いロクロを挽く人だと思っていた作家の個展で比較的大物の壷を観た。当然にロクロの仕事だと
思っていたのだが、近寄ると器表に凹凸があり手びねりの作品なのであった。

こういう進化の逆流のようなことが起るのは、やはり作家ということなのだろう。ロクロ職人では有り得ないこと
だと感じ入ったのだった。素朴へ帰ることもまた良しということか。

自然といい素朴といい、なんだか老壮的な美の匂いがするのだけど、中国の焼物はどうもそうした素朴を味わう風
がないのはどうしてなのだろう。南蛮島物を愛好するのは日本であって生産地ではない。
「大正時代からこのかた陶器を愛する気風がわが国はどの国にもないくらい盛んであり、この頃ではむしろ買う方
の鑑識眼の方が高まり、むしろ造る方をリードするように見えるから、よき陶器を辛抱して世に送れば永くはかか
るがわかってもらえて生活してゆけることにもなろう。」とは冨本憲吉晩年の未定稿「わが陶器造り」の文中にあ
る言葉である。

機能的であることを大物は求められ続けて、その機能性から別の素材が陶器の領域を浸食して行った。そして、鑑
識眼に耐える大物を生み出す土壌が整わぬうちに別素材と安価な外国製品が押し寄せてきたのだった。冨本の言う
良き物の基準がどこか違うということになろうか。

ついでに冨本の「民芸という運動が随分以前から始められたが彼らのいう大衆のための陶器なるものは、かえって
大衆のために用いられた陶器の形式だけを伝えるだけで価格においては少数の愛陶家だけが使い得るものである。
現代大衆のためのまたこの大多数の人々が使ってくれなければ大衆用として送り出した意味もまた消えてしまうわ
けではないか。」という批判もここの出しておこう。

ムーブメントとしての民芸には矛盾が孕まれていたのだが、ここに来て逆説的ではあるが、鑑識眼のある大衆が比
較的容易に美しい器を日常的に使う時代がきたのではないだろうか。楽観的にすぎるかもしれないが。