常滑やきもの散歩道 |
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「guest(常滑レポート)」でお馴染みの、晴鳶堂こと中野晴久さんの企画で、恐らく最後のシンポジュウムになるのでは・・・・ということで、男子一生の仕事の最終章と察し何十年振りかで常滑まで出掛けた。 本当は折角なので車で行き、あちこち見て歩きたかったが、溜った仕事や来月に控えた企画展のこともあり新幹線に決めた。 もともと出不精なので、タモリのように列車の旅をあれこれ企画するのは不得意だ。ネットで新幹線やホテルの予約をとるだけで難儀する;;旅慣れていないことがバレバレだ。それでも今回は、あと数年で退職という中野氏の勇姿をこの目におさめて於かねばと「最後に何を言うんだろうか・・」という興味も楽しみの一つ。 中部国際空港 セントレアの夜景が綺麗だと中野氏から聞いていたので楽しみにしていたが、泊まったホテルの部屋から空港がぎりぎり望めず、悔しいのでカメラでいつものように遊んでみた。 |
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伊勢湾/常滑 |
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夜景は×だったけれどホテルはできたばっかりのようで、どこもピカピカで快適。残念ながら『タモリ倶楽部』は、放送時間が違っているようで観ることはできなかったが、お陰でぐっすり寝ることができました。 |
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翌朝、目覚めも良く、おまけに快晴ときたのでシンポジュウムのある常滑市民文化会館まで気持ちよく歩けそう。外に出ると、ずっと先の四日市工業地帯、そしてその向こうの遥か遠くの山々まで視界が広がり、空もぐるりと見渡せる。このアングルが、どういう訳か昔から好きだ。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
セントレアが、これからどれほど使われ活性化するのか分らないが、その発展と開発を待つかのようにホテルの周りは空き地が広がっている。その中を一路文化会館へ。。 東海地方の目玉「モーニングサービス」を期待して喫茶店へ・・・・。残念ながらスカでした;;以前中野氏に連れ立って喫茶店に寄ったときは、もうちょっと豪華で確かサラダが付いたような・・・・。 結局この日、夕食までこれだけで過ごすことになるとは露知らず。。 |
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シンポジュウム会場 |
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シンポジュウム『中世渥美・常滑焼をおって』 日 時:11月10日(土)10:00〜16:30 集合場所:常滑市民文化会館ホール 参加費:無料 内 容: 10:00〜 開会挨拶 10:15〜 基調報告1「東海の中世窯」〜研究の到達点と課題〜 瀬戸・常滑・渥美という全国的に製品を供給した中世陶器の拠点的生産地と、それをとりまく分散的な生産地の実態がどこまで解明されてきたのか。そして、それぞれの生産地が示す特徴、その役割はどのようなものであったかを考えます。 1.「渥美窯の展開」安井俊則 氏(田原市立田原中学校教諭) 2.「常滑窯の展開」中野晴久 氏(とこなめ陶の森資料館) 3.「施釉陶器の生産形態−瀬戸窯を中心に−」藤澤良祐 氏(愛知学院大学文学部教授) 12:15〜 昼休み 13:15〜 基調報告2「消費地からの問題提起」 中世の壷・甕・鉢という基軸的器種の大量消費が行われた都市的遺跡から、改めてその性格を見直すことで、生活雑器としての常滑・渥美製品という位置づけを検討し直し、古瀬戸製品や貿易陶磁との有機的関連性に注目します。 1.「東北地方の渥美と常滑」八重樫忠郎 氏(平泉町役場総務企画課) 2.「都市鎌倉における渥美・常滑焼の使われ方」河野眞知郎 氏(鶴見大学文学部教授) 14:05〜 記念講演「中世流通史における陶器の位置」 脇田晴子 氏 (文化勲章受章者・滋賀県立大学名誉教授・石川県立歴史博物館館長・城西国際大学客員教授) 14:45〜 休憩 15:05〜 シンポジウム「中世渥美・常滑焼をおって」 司会進行 福岡猛志(日本福祉大学知多半島総合研究所所長) パネリスト 脇田氏を含む報告者6名 16:30〜 閉会挨拶 |
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中野氏の講演テーマは『常滑窯の展開』。配られた図録ではなく、プロジェクターを使っての講義は助かる。最後のシンポでは・・・・・といった気負いもなく、もう百ぺんも繰り返している風にテンポ良く講義は進行し40分はあっという間に過ぎた。 午後のパネルディスカッションまで3時間あまりあるので、中野氏が長く勤務した常滑民族資料館まで「やきもの散歩道」経由で特急散歩;;車でしか行ったことがなかったので方向感覚は抜群の僕でも距離感が今一。。 |
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果して今日は何曜日だったかな・・・・そう土曜日。でも「やきもの散歩道」ですれ違う人もまばら。こんなだったっけ。。そういえば常滑に来たのは、次男耕介が未だ小学校に上がる前だったから二十年以上前ということになり隔世の感。 中野氏とは、ずっと濃いやり取りをしているので、僕自身「常滑の中野氏」という思いで今日まで来た。考えてみれば、中野氏も結婚を機に常滑を離れ現在は東海市に住んでいる。僕が常滑から距離ができるのも仕方ないかな。 |
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常滑民俗資料館 |
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実は日本人は何処へ行っても親切だ。ここ常滑も文化会館や資料館に行く道を尋ねると、お爺さん、おばさん、お姉さん、みな丁寧にそれぞれの伝え方で教えてくれる。とは言うものの、3時間程で「やきもの散歩道」と民俗資料館をたずねて再び文化ホールまで戻るのは無理があった。昼飯抜きでジャケットとセーターを脱いで汗をかきかき文化ホールへ;; ぴったりシンポジュウムの前の休憩中に席に着く。 シンポジュウムのパネリストとして一番寂しいのは、自分への質問がないことだ。自分がパネリストの立場に立つとわかる。5分で中野氏の講演内容を反芻し質問用紙に書き込み速攻アンケート回収係の方に手渡し席に戻る。 なんと僕の質問が三番目に選ばれた。あんなに慌てて書き込んだにもかかわらずだ。先のお二方は、考古学の関係者らしき方々で、発掘された陶片の細部に拘った内容だったり、古文書の語彙の解釈だったり、マニアらしい質問内容だったが僕は素人なので総論に絞り「常滑焼が平泉や鎌倉に特化して大量に出土するのは何故か」「また埋蔵品のうち酒器などが多い理由として、当時世情が不安だったためではという説明だったが、日本全土が同じ条件だったと思われるのだが・・・・」というもの。うっかり回答者を指名するのを書き忘れたので、司会者は平泉から参加した講演者に振って中野氏はスルー。残念。 でも回答は当を得ていた。内容は「奈良・京都は既に既得権が動かず、その点、平泉・鎌倉は新興都市だったので販路を確保しやすかった」「また、新しく興た武士階級は、酒席を設けることで活発にコミュニケーションをとるように努めたのではないか」というもの。 でも、それは常滑焼でなくても、お隣の瀬戸焼でもよかったのでは・・・・・・と、こうやって次々に疑問が湧いて出て来て、やがて考古学マニアになってゆくのだな~と納得。 |
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そして、シンポジュウムを真面目に聞いていたら、性分なんですね~、もっとマシな質問は出来なかったのか・・・と、このシンポジュウムの本質的問いを考え始める自分がいました。そして新たに出した問いは・・・・・・・ 『常滑焼とはなにか』そして『常滑とはなにか』です。 こういうスタイルでのシンポは経験上、最後の最後に「時間が来ましたので、それではこれで最後の質問とさせて頂きます・・・」てな具合になるはず。それを期待して配られた資料の裏に書き出してみた。 地についた、生活に根付いたところでの「もの作り」の指向性(衛生陶器/厠(かわや)用の甕」/酒器等)がその本質と思われる常滑焼だが、なぜその様な作風が主たるものとなったのか、なぜ加飾、そして装飾へと向い付加価値性の高い作風へと向わなかったのか。つまり「霽れと褻」のうち「褻」に特化した生産スタイルはどこから来ているのか。風土からくる自然観というか倫理観、それとも宗教的な背景から来るのか・・・・・ 「よし!これで行こう」 残念ながら最後の質問者は、司会者があてた「この道のシーラカンスと自負?する」方で最後となりました。でも、この方、僕の出した質問事項を覗き込んだのでは・・・・と思えるほど、僕の質問と重なる問いでした。問いと言うより”まとめ”といった方が適当かも知れません。 |
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それは、お隣瀬戸焼が「器種は中国から輸入される磁器を模倣したものが多く、代用品として生産・流通したと見られる。鎌倉時代の製品には優美な印花文や画花文を施したものが多い(ウィキペディアより)」とあり、加飾のある付加価値性の高い陶器は瀬戸、日常使の陶器は常滑・・・・と棲み分けが早くから出来上がったということらしい。 ここに来て地場産業だけでなく、日本の総ての業態が「付加価値性の構築とブランド化」そしてそのマネージメントが、今後の日本経済の活性化にとってひっきんの課題になっている。ということは、かつて常滑焼と棲み分け付加価値性を売りにした瀬戸焼も、グローバル化の波の中では同じ課題を抱え込んでいるということになる。 常滑焼とは何か、そして今後どう生き残ったらいいのか・・・・この未来に向けての問いに考古学的知見が応えられなければ過去の膨大なリソースを活かしたことにならないのではないか。考古学とは、古い遺構を調査して出土した資料を整理検討して分類することと同時に、その資料を未来に向けて生きた資料として活かしてゆくということを本義とするものではないのか・・・・それが今回のシンポジュウム『中世渥美・常滑焼をおって』の講演に立ち会って僕に見えてきたものです。 |
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シンポジュウムは無事終了し、発起人の中野氏をねぎい速攻常滑駅へ。せっかくなので常滑駅前で食事でも・・・・と駅前をうろついたが、軽食を除きまったく食堂らしきものがなさそう。。土産も買えず、そのまま名古屋へ。さすが名古屋は、人でごった返していた。駅ナカの食べ物通りも人の行列、名古屋は元気だ。 |
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人は動くと、動いたなりの収穫があるものだ。今回、あらためてそのことを知った。 僕の続けてきた鎌倉彫りとは真逆に位置する『常滑焼』だが、片や加飾・装飾の世界、片や用に徹した世界。僕ら人間は、この二つの要素を補完しあって存在する。確か30年以上前『かたち』主幹だった笹山 央氏が「器の始まりは、両手で水をすくう形からきているのでは・・・」といったことを述べていた。以前読んだ雑誌に器の始まりは、人のシャレコウベをひっくり返して使ったことからでは・・・・と物騒な説があったが、貝偏や椰子殻の半片を道具として使ったことが始まりともいえる。しかし、人類が道具を始めから使っていたわけではないはずなので、「すくう形」を器の起源とする考えは、なかなか穿っていると言えるのでは。。 それにしても「酒」が、人の歴史や文化に、ここまで深く関わっていたとは新しい発見でした。「酒を始めとする嗜好品は、人が集団生活を始め社会化したと同時に個人は疎外され、そこを補完するために生まれた」というのが僕の持論です。 どうにもならない、どうしようもないことは日常に溢れてるわけで、そこを手っ取り早く、いや・・・・巧みにとしましょう、そこを埋め合わせて辻褄を合わせてくれるのが、妙薬の酒ということでしょうか。これは根本的な解決ではない・・・・などと野暮なことを言ってはいけません。歳をとると、この辺が切実に合点するようになるのであります。 シンポジュウム『中世渥美・常滑焼をおって』は、中野氏の最終章の序章にあたるもの。この後、新たな道を開拓するべく今、博士論文の仕上げに取り掛かっているはず。健康に留意して、さらに「常滑焼とはなにか」を徹底して深めて行って欲しいと願うばかりです。 お疲れさまでした。でも、これからですから。。 |
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