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2009 & 2010 Today's image index
人は何故夢を見るのだろう.............



先日、こんな夢を見た。。



小学校5・6年の頃の次男耕介と僕(年齢は不詳)が、一枚の写真を見て話し込んでいる。その写真とは、そこで話している耕介が未だ小さかった5・6才位の時の写真。当時泣き虫(いつも悔し泣き)だった息子が、何故泣いているのだろうと、僕が息子に聞くと、本人も真剣にそのことについて分析してみせる.............
 
   
 このシーンは、年齢が前後しつつ全く同じ構造をもって何度か見る夢だ。つまり、同じ人物が、本人の年齢が若い頃の写真や本人そのものについてコメントするというパターン。これは一体何を意味しているのだろう。。  

(耕介 3才)











(耕介12才)
 
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essay +column+
2009 & 2010 Today's image index
夢といえば先ずフロイドの名が出てくる。彼によると・・・・・・



 夢の原動力はいつでも例外なしに、「充たさるべき願望である。」・・・・・・(『夢判断』)。



この見解について、吉本隆明は”保留をつけなければならない”と述べている。もちろん、フロイドの遺した仕事は高く評価はしているのだが。おそらくフロイドの言いたかったことが、いわゆる一般的に”夢”という響きから伝わってくる通念に、深い構造をもつとされる吉本さんの”夢”の概念が、脅かされるのを避けたかったものと思われる。



僕の過去の記憶だと、もの凄く追い詰められて、どうしてもある事態を乗り越えなければならないとき(あまり何度もないが)夢で、それを事前に幸運にも乗り越えたという体験をもっている。これは、たぶんとても難儀な事態を前にして、ぶっつけ本番だと失敗する危険を無意識に感じ、事前にバーチャルな場を設定してシミュレーションする生態の自己保存本能/事故防御本能ではないかと考えられる。以前ご近所だったMさんも、僕と同じ体験を持つと言っていたので、このことは、それほど特異なことではないのではと思っている。



何れにしても、この概念は、夢が明らかに、ある意味を持っていて、何の文脈も持たずに見えるとされる夢のシーンとは違って、ある意味偶然に唐突に表出されるものではないと言う内容をもつ 。
ところでフロイドに、先の僕の夢を分析してもらったらどう言った風に夢判断するのだろうか ・・・・。


済みません、なでしこ japan とU-23 が余りにも良い試合をするもんでHP更新遅れてます。



そう、夢でした。その夢ですが、僕が今まで、これは如何にも夢らしいと思えた「夢の話」がいくつかある。一つは、高校の時の地学の先生が授業の始まる前振りで話してくれたもの・・・・・。


昨日夢を見たんですが、これがけっこう面白かったんですよ。それは、いつものように登校する際駅の改札口で切符きりの駅員さんに定期券を見せるんですが、駅員さんが、その定期券のどこに切符切りの痕を残したらいいのか首を傾げて悩んでいるんです。只それだけなんですが、けっこう面白いでしょ?



いつから改札口が自動になったのか思い出せないが、昔は駅員さんが、改札口で重厚な金属製の切符切りをカチカチ鳴らしてタイミングをとりながら、差し出された切符に一枚一枚M字状の穴を空けて改札を抜けた証明痕を付けていた。



それから、これは明らかに夢からヒントを得ているんじゃないかというシーンが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にある。それは第8章「鳥を捕る人 」で次のような場面だ。
 

当時の瀬川陸橋を渡る岩手軽便鉄道車輛(林風舎)

 
・・・・・・

「さあ、ごらんなさい。「いまとって来たばかりです。」

「ほんとうに鷺だねえ。」二人は思わず叫びました。まっ白な、あのさっきの北の十字架のように光る鷺のからだが、十ばかり、少しひらべったくなって、黒い脚をちぢめて、浮彫のようにならんでいたのです。

「眼をつぶってるね。」カムパネルラは、指でそっと、鷺の三日月がたの白い瞑った眼にさわりました。頭の上の槍のような白い毛もちゃんとついていました。

「ね、そうでしょう。」鳥捕りは風呂敷を重ねて、またくるくると包んで紐でくくりました。誰がいったいここらで鷺なんぞ喰べるだろうとジョバンニは思いながら訊きました。

「鷺はおいしいんですか。」

「ええ、毎日注文があります。しかし雁の方が、もっと売れます。雁の方がずっと柄がいいし、第一手数がありませんからな。そら。」鳥捕りは、また別の方の包みを解きました。すると黄と青じろとまだらになって、なにかのあかりのようにひかる雁が、ちょうどさっきの鷺のように、くちばしを揃えて、少し扁べったくなって、ならんでいました。

「こっちはすぐ喰べられます。どうです、少しおあがりなさい。」鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。

「どうです。すこしたべてごらんなさい。」鳥捕りは、それを二つにちぎってわたしました。ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、大へん気の毒だ。)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。

「も少しおあがりなさい。」鳥捕りがまた包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、

「ええ、ありがとう。」と云って遠慮しましたら、鳥捕りは、こんどは向うの席の、鍵をもった人に出しました・・・・・・・・(第8章 鳥を捕る人より)

 
 
・・・・鳥捕りは、黄いろな雁の足を、軽くひっぱりました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。・・・・



僕らが日常感覚でもっている雁のイメージを大きく裏切るこの表現は、一体どこから来たのか。そして、賢治はどうしてこういった表現を選んだのか・・・・・。



これは僕の直感だが、賢治は、”夢”からこのイメージを着想したのでは・・・・・・・と思えてならない。



夢の一シーンを”覚えている”とは、どういう意味を持つのか・・・。このことについて吉本隆明は、次のように分析をしている。



一般に<記憶>とよばれているものは、心的なパターンということにほかならない。そしてわたしたちが心的パターンを持っているのは、それが世界にたいする関係の結節を意味しているからである。つまり、わたしたちはなんらかの意味で世界に対する関係づけのキイ・ポイントとしてしか<記憶>を保持しないし、逆の云い方をすれば<記憶>されるものは、それが夢であれ、言葉であれ、出来事であれ、すべて世界にたいする人間の関係づけの結節だけである。
 
 
昨晩、大分体調も回復してきたので途中二百段の階段を登る、いつものコースを90%の力でウォーキングした。調子よくご近所の川沿い近くまで来たとき一匹の子猫?・・・・すれ違い様よく見ると、耳が違う。もしや子狸?  そう狸の子でした。以前も、お隣の階段をゆさゆさ登る丸々と肥ってころころした猫、と思いきや狸ということもありましたので多分狸です。それとも夢?



「夢」とは、白川静氏によると、睡眠中に深層心理的な作用としてあらわれるものとされるが、古くは呪術を行う巫女が操作する霊の作用によって夜(夕)の睡眠中にあらわれるものとされた。そして、「夢」は予占に用い、それは神霊の啓示としてあらわれるもので、その啓示をもたらすものは媚とよばれる巫女が廟中で祈り、その呪霊により夢占いが行われたという。したがって、「夢」という漢字は、廟の中で巫女が祈る様を表している象形ということ。


・・・ということは、「夢判断」は、フロイドが最初の提唱者ではなく、古代からあった手法ということになります。人間、さほど成長しているわけではなさそうです。
 

「夢」............殷墟文字
 
 人は夢を糸口にして、覚醒時の問題を解くヒントをそこに求める・・・・この姿勢は、古代も現代も同じということが、とても興味深いし夢そのものがもつポテンシャルでもあります。人が夢を見ること、そして、その夢を解析して生きる上での深い啓示を得ようとする試みは、人間とは何かという問いのひとつであることは間違いないように思います。


そう言えば浪人中、中国哲学の本をパラパラ捲っていたら「胡蝶の夢」という荘子の思想が紹介されていて、その主旨は、荘子が、蝶となり百年を花上に遊んだと夢に見て目覚めたものの、自分が夢で蝶となったのか、それとも蝶が夢見て今自分になっているのかと疑ったという話でした。まさしく人偏に夢と書いて儚い(はかない)と読むその訳がここにあるようです。



そもそも僕らが、こんなにも夢について知りたがるのは、夢そのものが覚醒時に見える風景とニュアンスが違っているように感じることにあるようにも思えます。つまり、覚醒時に目を見開いて見えている風景と、夢の中で「見えている」風景とは、「見えている」ことの中身が全く次元が違っていると思えるからです。そのことを吉本さんは「入眠言語」と「入眠形像」と呼びました。
  

万葉仮名を殷墟文字に直しているところです
   
フロイドにしても、吉本さんにしても「夢」は、人間の表現の一つと考えていたということは重要です。人は無造作に夢を見ているわけではなく、目覚めているときの出来事に関連付けて夢を構成しているようなので、この”関連付ける”という営為に、夢が夢たる所以があるように思います。



そして、僕らが夢に惹かれるのは、そこに時間系列を超えて様々な事象が現れることにあります。僕の場合は、願望は未来予測として現れ、それ以外は、ほぼ過去の像が現れます。この場合、夢の像の出方は時間軸が一様ではなく、一シーンから別のシーンへ、ある時は脈絡をもって、ある時は脈絡なく飛びます。また、同時に同じ場面で複数の時間軸を共有したりします。たとえば、中学生の息子が、小学生当時の息子本人を前にして何かを語りかけている・・・と言った風に。



この様に、覚醒時にはあり得ない場面が夢では表出するので、人は夢に魔力や霊力を感じ続けてきた訳です。そして、僕にとっての”結節”=拘りは、同じ場面に複数の時間軸をもって像があらわれることにあるようです。そして、そのシチュエーションは総て過去になります。今のところ、この夢の構造を分析する術はもっていません。フロイドの「夢判断」や吉本隆明の「心的現象論」をもってしても充分に理解することも出来てはいません。
     
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2009 & 2010 Today's image index
 
Sigmund Freud
この困難さは、夢の像が、覚醒時の視覚像と違って目を懲らして確認することも出来ず、そもそも本来夢の像は、それが出現した段階で既に、それが何者かを本人が”了解”済みだということにあります。夢の像をいちいち検証したりすることはなく、始めからすんなりと外れなく”夢言語”あるいは”夢像”として表出して物語は構成されて行きます。そこが視覚像ではない、夢の夢たる所以でもあります。



夢を Today's image で扱うには、その構造が未だに十分な解明がされてはいないので何だか尻切れトンボのような、消化不良の様な内容になってしまいました。未だ未だ突っ込んで書き進めたいこともあるのですが、不明瞭なことも多すぎて曖昧な話に終始しそうなので、この辺で幕にしたいと思います。もうちょっと面白く画けそうだったんですが・・・・次はもう少し確信のある解析が出来たときに再度夢をテーマに上げたいと思います(オリンピック疲れかも。。なでしこ japan  男子u-23 がんばれー)



暑中お見舞い申し上げます
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