葉山ハートセンターより江ノ島を望む |
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無事生還しました。 この6日、持病の不整脈根治のため葉山ハートセンターに入院。当初、2日程で帰れるものと勘違いしていて、結局一週間お世話になった。 手術(カテーテルアブレーション)は無事成功し、経過も順調なので、百草さんでの企画展への準備もあり、執刀医にダメ元で早期退院をお願いしたところ、あっさり予定を2日程早めてもらえた。 薬飲みのみでのサッカーは、この先身体への負担が大きいことは分りきったことなので、主治医の薦めもあり先月手術を決意した。若い主治医もその経験値を上げたかったということもあり、前々から薦められてはいた。この先サッカーを諦めることはイメージ出来ないので腹を括った。 |
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江ノ島 |
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カテーテルアブレーションとは、不必要な電気信号を絶縁するため、7本の管を脚の付け根の動脈から心臓まで入れて心房の一部を焼勺する手術。全身麻酔ではないが、痛みはほとんどない。とはいえ4時間にわたる手術は、身体の芯に堪える。 四人部屋での入院だったが、目の前の方やお隣の方など、歩くだけでもシンドそうで夜中など明日にでも絶命では・・・と感ずるほど息が荒い様子。やはり心臓は身体の核になる正にダイナモ。自分ももう少し労ってあげないと心臓に気の毒というか、申し訳ない。 術後直ぐは「東さんは、いつもそんな真っ青なお顔をしているのですか・・・・」と看護婦さんに聞かれるほど、たぶんゾンビのように青白いこの世のものとも思えない様相だったのでは;;;でも、二日ほど経つとウソのように気も充実しているのを感じられるようになる。うっかり2日程で帰れる積もりだったので、やり残した百草さんへ納める作品をどう仕上げて間に合わせようか入院中も思案。。 |
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こんな時期に、UEFA EURO 2012 サッカー欧州選手権があるのです。入院中は、何と消灯が9:00。そりゃ~ないよ・・・・って放映は夜中の3時過ぎ。TVにジャージを被せ光が漏れないように観てました;;;(昼一日中寝ているんだから大丈夫)。 過ぎてしまうといつだったか忘れるほどで目出度く退院し、早速残してきた新作の椀を仕上げ、自分でやるつもりだった愛車のオイル交換を、ここはプロに任せて済ませたところで、かみさんが今回ばかりは運転を買って出てくれたので多治見へのドライブは諦めた。 |
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江ノ島 |
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よくやるな~と思いつつ、出発の朝まで新作の椀の錫研きを仕上げ一路多治見へ。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
錫研き前の椀(完成品を撮る時間がありませんでした;;) 愛 気 亀 |
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ネットで多治見までの所要時間を検索したところ4時間ということだったが、あに図らんや百草さんまで5時間半掛かった。やはり一人では無理だったかな。。 先方に着いて「東さんが一番出品数が少なく寂しい状況です・・・」と言われていたのを受け、それならばと『落書き錫研き Table』を持参、どこへ搬出しようかとうろうろしていると、庭にフグ田さん似の何処かで見た顔が・・・・「あれっ、こんなとこで何してるんですか??」............ 何と会津のALTE MEISTER 銀座 ギャラリー厨子屋担当神林さんがいるではありませんか。 お陰で小雨の中『落書き錫研き Table』の搬入を手伝って頂きラッキーでした。感謝。 |
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『土楽』福森雅武さんのお嬢さんが調理して下さった、溢れんばかりのご馳走 |
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4時からトークイベント「作り手との対話」が予定されていたので、何とか間に合わせようと途中休憩は余り取れなかった。甲斐あってギリで間に合いました。 会場は、皆さん縮こまって肩を寄せ合い圧し合いぎゅうぎゅう詰め。よくもまあこんなにお集まり下さったと言うくらい鮨詰め状態でした。7人の作り手が、それぞれ山田節子さんの紹介で制作への想いを語りました。 持ち時間は5分程度でしたでしょうか、各作り手の方々は、それぞれの拘りがしっかりあり、流石伊達に長い間ものを作り続けてきた訳じゃないんだな~と感心しながら耳を傾けていました。 年齢順だったので僕はどん尻でしたが、朝まで喋れと言われれば、ずっと喋っていられるくらい伝えたいことは沢山ありますが、一巡して僕の喋った後「じゃ、今度は逆回りで・・・」と、皆さんは二度喋れるチャンスがあったのに、僕だけ一度はね~だろうって山田さんに突っ込みを入れたかったのですが、まっ僕の話の密度は高いので丁度良いかなと。。 因みに僕は、鎌倉彫の歴史と僕の装飾への拘りを関連付けて喋ってみました。ぶっつけ本番の割には、結構纏まりのある、いいお話が出来ました(自画自賛;;;もうちょっと時間が欲しかったかな。。)。 |
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多治見修道院 |
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35年ほど前、神奈川県美術展で準グランプリ賞を頂いた。その時の審査委員の中に人間国宝の赤地友哉氏がいた。本来なら僕の所属する現代工芸派を推すことはなく、伝統工芸出身者に票を入れるのが筋だったところ氏は僕に一票投じて下さったそうだ(当時の審査員の方が、僕に丸を付けるのを横目で見たそうです)。お陰で結婚資金の賞金50万円を元手に悪夢・・じゃなくて新婚生活が始まったわけです。 今回、赤地 健さんが同席したので赤地友哉氏との関係をお尋ねしたところ叔父にあたるそうです。三十年以上前の経緯を伝え重ねてお礼を言いました(健さんとはあまり関係ないのですが・・・・)ついでに氏の所を尋ねた時、開口一番「私は弟子はとりませんので」と言われたことなどをネタに友哉氏の人となりなどをお聞きしましたが、とても真面目で可愛がって貰ったとのことでした。 そう言えば、漆を付けたシダを棗に直接判のように押して蒔絵を仕上げたことなどを丁寧に教えて下さったことを思い出します。そして、氏が好んで使っていた朱の粉が、今は無くなってしまいましたが「黒田」という朱の粉だったことも思い出しました。この朱は、現在残っている他社の朱の粉より比重が重く、良く掻き回さないと直ぐに沈んで漆と分離してしまうほどです。でも、渋く深みのある朱の粉です。現在最後の一箱を大事に仕舞い込んでいます。嘗て、これは!と言うときに使いました。これを機会に使ってみようと思います。 |
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作:赤地 健 ・・・ギャルリ百草で求めた、丈夫で長持ちしそうな厚手の茶碗です |
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今回、ギャルリ百草さんでの企画が山田節子さんに依頼された背景には、凋落が続く地場産業としての伝統工芸の厳しい現実を見据えてのこと。この状況は、何も地方の産地にだけ起きている訳ではなく、日本全体が置かれている構造的な問題だ。 出品者が、団塊の世代から上で!という希望が百草さんから山田さんに伝えられていたと聞いている。その訳は、最近の若手と言われる作り手が、マスコミに取り上げられても直に消えていってしまう・・・・ということから、息の長い制作を続けているということで今回の7人が選定されたようだ。ただ、僕らより上の世代と今の若い世代を一概に比較は出来ない。先ず、経済状況が今とまったく違っていた。スタートラインが違うのだから、そもそも比較にならないと思う。 僕らが若かった頃は、お金を稼ごうと思ったらいつでも稼げる現実があったので、お金がないということがちっとも怖いことでも、恥ずかしいことでもなかった。貧乏していることが返ってマーケットに抵抗しているようで格好良く見えていたりもした。視界良好、日本も順風満帆、怖いものなし・・・・そんな状況だった。 僕らは Japan as Number one を知っているが、今の若い人達は、それを知らない。「右肩上がり」の感覚を知らずに、この厳しい現実に対面している。この前終えたSAVOIR VIVREでの個展の際、多摩美で教えているガラス作家の高橋禎彦さんが言っていた「今、工芸学科に入学する生徒が激減しているんですよ」と。当然といえば当然で、先の見えない今の社会で、凋落著しい伝統工芸界の姿を見て、この世界に飛び込む輩は無謀といえば無謀だ。生産性の低さという前近代のリスクとグローバル化の今起きているリスクを併せ持ってしまっている工芸界は、怖くて近付けないはずだ。 それでもものを作りたい奴は何処へ行くのか・・・・それは何も工芸である必要もなく、溢れんばかりのアイテムがある今の世の中、それら身の回りのアイテム(携帯・ゲーム・アパレル他沢山の身の回りのもの総て)を新しく生み出す世界が、工芸に代わって若者の創作意欲を引き受けているはず。 |
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多治見修道院内 |
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それでも敢えてこの世界に入るとしたら・・・・・いま何が必要なのだろうか。。 何か、漸く東節が戻ってきたようなので本調子に近付いて来ているような................でも油断大敵;; 工芸家は修行僧ではないので、ものを作ることで生活が回らなければ、余程のことがない限りこの仕事に就く者は少なくなる方が自然だ。親の代まで工芸の世界にいたとして、そのリソース(資材・設備・顧客等)を引き継ぎ何とか回して来たのが今までの流れだ。今やそれも簡単ではない。というのも、社会の変化が多様で、尚かつ複雑なので、消費者がどういったニーズを持っているかを掴むのがとても難しい。そうなると誰に向けてものを作っていけばいいのかも曖昧になる。 赤地 健さんと話したとき、「今まで懇意にしていた取扱店が、軒並み店を閉じたので作ったものをどう売ったらいいのか分らなくなってきた・・・」と仰っていたが、都内はもちろん、日本の主要都市は、みな同じ状況だと思う。藻谷浩介さんの指摘にあるように、坪単位で上げなければならない単価が高い主要都市では、工芸店やgalleryの運営はとても難しいことになっている。 経産省のデータによると、2000~2006年の東京での小売りの売上が地方都市の3倍とある。しかし、、地価が地方都市に比べて10倍高い東京では、工芸のショップやgalleryは撤退せざるを得ない。リーマンショック以後となればもっと厳しい数字が出るはずだ。 |
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多治見修道院内 |
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陶芸は漆芸と違って量産できるというイメージがあるので赤地さんに聞いてみた。「一日に茶碗なら幾つくらい作れちゃうんですか?」・・・・何と300個だそうです。もっと腕のいい人ならそれ以上作れてしまうと言うことでした;;赤地さん自身は「絵付けは1秒で仕上げるように挑戦している」とも仰っていました。この勢いで制作したら、取扱店が少なくなると在庫が増えて死活問題になるのでは、と率直に感じましたが、ちょっとそこまでは微妙で聞けませんでした。 「最近、売れますか?」と聞かれるので「元元そんなに沢山売れていたわけではないので、漸く何とか売れるようになった気がします」と伝えたところ「ほんとですか!」と目を丸くしておられました。 赤地さんのお話を聞いていると、良く言われる不景気への対応策である”生産性の向上”では、この難関を突破できないと言った藻谷さんの状況分析が、益々信憑性がある様に思えてきます。みなさんギリギリまで努力して今があるわけで、”生産性の向上”など、とっくにクリアーしてきたことなのです。特に陶芸はそれが可能だった訳で、にも拘わらず厳しいのはどういったことなのか・・・・・ |
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多治見修道院内 |
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僕自身振り返ってみると、最初の個展は、右も左も分らなかったので、4割方は漠然と皆さんが好みそうなものを作り、後の6割は、作りたいもの・・・いや、あるべきもの・・・を作った様な記憶があります。そして、僕が思った「皆さんが好みそうなもの」は、殆どがスカだったので次からは100%近く「こんなものがあったら好いのにな~、あったら素敵だな~」というものをずっと作り続けて今日まで来ています。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
Mushikui-ju (s) はーと落書き音符重 |
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上の作品は、単身赴任したサラリーマンや独身者が夜遅くにマンションに帰宅して、独りポツネンと孤食をとる場面を想定して作ったのもです。(直径14×高さ16
cm)ほどの小さなお重です。たとえセブンイレブンで買った出来合のお総菜でも、このお重に盛れば何となく豪華で特別なご馳走に在り付けているような、そんな気分になれたら好いのにな~という思いで
作りました。もちろん家族に囲まれていただく霽れの日のご馳走を盛るのもありです。 話が本題から逸れているようですが、実はそうではありません。つまり、伝統工芸を取り巻く状況が厳しい中で、生産性の向上で問題を解決するのは難しい、あるいは限界があるということを言いたいわけです。もちろん、あっさりとさらっと流した表現のものを使いたいこともあります。日常のほとんどが、そういったシチュエーションかも知れません。ただそう言った領域は、みなが参入して来やすいところなので、コピーも多く出回るでしょうし、僕が良く触れる「平均偏差値」の曲線の一番ピークが来るところです。従って競争も激しくなりますし、その意味で交換可能なものになりやすくなります。 もしそれらのものが売れるとなると、恐らく中国や、その他の新興国が間違いなく真似をすると思います。こうなると白物家電やTVの置かれている状況と変りません(生憎工芸は、あまり儲からないのが分ってきたので、今後中国や韓国などは参入してこないと思いますが)。 |
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上の椀は、日本民藝館に収蔵されている李朝期の碗です。これらが作られた当初は、恐らく民具の範疇に入る何の変哲もない日常雑器だったと思います。多分手回しの轆轤で挽かれたものではないでしょうか。手捻りより生産性を上げるため、精々手回しの轆轤が考案され、ある意味機械化されたことで幾分か量産が可能になったと思われます。 概ね形が整って統一さえしていれば、細かいところはさほど気にせず大らかに作っていたのでは・・・・と推測します。あまりごちゃごちゃ考えずに、ゆる~い枠のなかで、せせこましくなくゆったりと作っていたのではと、どこかで理想的な作り手の姿勢を勝手に投影してしまいます。それ故とても健康に感じます。今回、百草で赤地さんに確認はしませんでしたが、「絵付けは、出来れば一秒で。。」・・・の真意は、上で述べた李朝の器から感ずる制作姿勢を言ったのではと僕は感じました。 ウィキペディアによると、こういった日本人好みの所謂高麗茶碗は、16世紀半ば頃から、日本の茶道で用いられた茶碗の分類の一つであり、朝鮮半島で焼かれた日常雑器を日本の茶人が賞玩し茶器に見立てたものである。高麗茶碗の「高麗」とは「朝鮮渡来」の意であり、「高麗茶碗」と称されるもののほとんどは高麗時代ではなく、朝鮮王朝時代の製品である。 日本の茶道は室町時代の「書院の茶」から「侘び・寂び」を重んじる「草庵の茶」へと変化していった。その過程で茶器も唐物(中国製)中心から高麗物(朝鮮半島製)、和物(日本製)がよしとされるように価値観が変わっていった。もともと日用雑器として作られた「高麗茶碗」は、こうして茶器として取り上げられるようになった。 |
日本民藝館のことに触れた page | ||||||||||||||||||||||||||||||
荒川豊三資料館入り口 |
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日本人、特に茶人が李朝ものを好むのには深いわけがありそうです。その一つに浮き世の金儲けに背を向ける姿勢があります。朝鮮半島に根付いた儒教の影響なのか、この地の人々には”商い”に拘わる層は卑しいとする通念があったとされます。お金は欲の象徴でもあるので、こういったものが渦巻く日常から限りなく離れた所を志向する姿勢が「侘び寂」と同調したのでしょうか。でも、茶界の実相は、世俗よりお金や欲の渦巻く世界でもあることが皮肉ですが。。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
川喜多半泥子の碗 |
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伝統工芸が立たされている厳しい状況を、どう打開していったらいいのかを伝えようとしたのですが、こんなに遠くまで来てしまいました。 今回、多治見の百草さんで試みられた企画の主旨は、作り手が長く続けてきたその姿勢ではなく、この先に魅力ある工芸を展開するには、今何が必要なのか・・・・・本来、それを問うことが第一義ではなかったかと僕は思います。それは僕らの世代は、偶々いい状況と条件の中で作り続けることが出来たことが大きいので、今までやって来たことを若い世代に話したところで、あまり参考にはならないと思っています。多分まったく新しいアプローチが必要なのではと直感します。それは、恐らく僕らより上の世代の人達には、生理的に受け入れることが難しい術かも知れません。 個人的には、幸運にも縁あって多治見修道院に宿泊出来たことにも触れたかったのですが、熱く語りすぎて思いも掛けない方に話が逸れてしまいました。また別の機会に触れられたらと思います。 では、では。 |
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多治見修道院内から見える葡萄畑 |
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