鹿児島での長~いお話が、長~く伸びたページで表示するのは閲覧するのが面倒なので「続・鹿児島での初個展」としてこちらに移動することにしました。


さて以前、歳をとって住むなら地方都市だ・・・と言われていたのをぼんやり覚えていますが、今回鹿児島市内を散策して同じように感じた次第です。鹿児島市内で、ほぼ全てのものが足りることに気付きました。おまけにクアハウスのような日帰りの温泉が何十軒・何百軒とあるのです。誠にもって快適です。
 ただ、桜島の灰にはまいります。室内にいても側の椅子の表面を指で払うと必ずザラッと灰が付きます。数日間滞在すると知恵が付いて先ず目薬を常備することになります。鹿児島市内の車は、傷みがすごいだろうな~と、余計な心配をしたりします。
 
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さて、話は前後(左右?)するわけですが、オープニングの初日、gallery までの長い坂の途中にある南洲墓地(西郷さんのお墓を真ん中にして、西南戦争の戦没者がまつられています)に参り西郷南洲顕彰館に寄りました。もう懐かしい感じですが、僕としては珍しく昨年夢中で観ていた大河ドラマ『龍馬伝』以来、幕末史がとても身近に感じられるようになり、今回の鹿児島も西郷さん所縁の地とあって楽しみにしていました。時代は、西郷さんから龍馬へ・・・と宮台真司が言っていましたが、その意味するところは、時代の変わり目を堺に日本人の心根が西郷的なるものから龍馬的なるものへチェンジしたということ。


そして、その境目とは、つまりグローバル化と言えるし、高度資本主義社会化とも言えます。地域社会も家族も空洞化し、労働現場は、終身雇用、年功序列から能率主義へ大きく舵を切りました。人の行動規範が”情”から、先を見通した実利へと移行し世界を相手に闘うには、義理人情は足枷にしかならないと考えるに至っということ。



ずっと昔から西郷隆盛が、身投げをして自殺未遂をしたことがあると聞いていて、そこには何か深いわけがあったのだろうと思っていましたが、今回鹿児島に来てその真実を黎明館で知りました。

資料によると・・・・・


錦江湾に身を投げた西郷隆盛と月照上人

 

◆安政5年、斉彬が急死して、薩摩の帰路に腹を切って殉死を覚悟した西郷隆盛を制止したのが、「月照上人」である。鹿児島に戻った西郷隆盛は、月照上人を薩摩に迎えるが勤皇僧として、月照暗殺の通達でどうにもならなくなり、「西郷」と「月照」はお互いに抱き合いながら冬の錦江湾に身を投げた。この「心中」の結果、月照上人は死亡、西郷隆盛は息を吹き返した。



月照上人の人となりは尊皇攘夷に傾倒して京都の公家と関係を持ち、徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされ大老井伊直弼による「安政の大獄」の犠牲となった。同じ心意気で戦い続けた”同志”をたとえ幕府の命としても見捨てるわけにはいかないと、ならばあの世まで一緒に・・・・三船沖で月照上人と西郷は心中を企てた訳です。今の社会から見ると、西郷のとった行動は、とても合理的には見えないわけです。





・・・・・と、ここでブレイク。

先日、平塚の高橋さんから、毎年お歳暮で南足柄の不揃いミカンを送って頂いてた庵原さんに代わって伊勢原のミカンが送られてきました。南足柄と伊勢原は、そんなに遠い距離ではないはずですが、味はまったく違っています。南足柄のミカンは、思いっきり不揃いでワイルドな味がしますが、伊勢原のミカンは、ずっとお上品で粒だちも揃っています。



一つぱくつくと、止まらなくなります。こいつを頬ばりながらの更新です。。
 
 
そう西郷でした。つまり、人を評価する尺度が”情”と言おうか、人のもつ目に見えない”こころ”と”こころ”のやり取りの集積と言おうか、そういった不合理を含めた人間観の幅の大きさをもつのが西郷さんと呼ばれる所以のような気がします。

 知識がないので対比として出てくる龍馬のことは、あまり多くのことは語れませんが、やはり来るべき近代資本主義の合理的な理念を善しとし、人の情が渦巻く地域や藩を超えたところにある『世界』を理想として追いかけようとする姿勢がモダーンで格好いいところでしょうか。3.11以前には、圧倒的に龍馬的なるものが評価されていたと思いますが、震災を堺に、今年をたとえる漢字が「絆」であるように、人びとは急速に西郷的なるものの再評価をし始めているような気がします。



そして今回の鹿児島で、僕が一番深く心を動かされたこと・・・・・・それは菖蒲学園という知的障害者の方々が作業場をもつ施設で制作されている作品、あるいは商品の数々でした。

菖蒲学園公式サイト http://www.shobu.jp/


人間はもちろん、類人猿や象も絵を描きます。そして、人も猿も象もその表現が「仕上がった」とする謂わば表現の臨界点というか、これで出来上がったと作り手が納得する最終点が表現にはあります。絵を得意とするチンパンジーなどで実験すると、彼らが「これで仕上がったと筆を置くポイント」は、我々人間が見ても納得できるもので、これ以上描き込んだら破綻すると思えるぎりぎりのところで筆を置くといいます。

しかし、その絵を描くことに餌付けを関連付けると、このポイントが安易な方に移動することが実験によって知られています。つまり、絵を仕上げたと思われる点で餌を与えると、やがて明らかに未だ完成されていないポイントで彼らは餌を欲しいがために筆を置くといいます。人間もこの経済原理を組み入れながら絵を描くと、なるべく効率の良い絵を描くようシフトするようになります。


その作品の「完成」を決定づける決断点ですが、どう言った根拠で、そこが筆を置くべき時点なのかを決める判断は、作り手本人にもよく分からないものですが、結果としてそれ以上描いたら描きすぎになる寸前で筆置くのが理想となります。
 

菖蒲学園作業場/gallery









































菖蒲学園作業場
 
何を言いたいのかというと、菖蒲学園のメンバーの方々の作ったもの、とくにアパレルは、その密度が半端じゃないのです。この密度の高さは一体何処から来るのでしょうか・・・・・・それは、先程触れた表現の完成点といいますか、これでよしとする臨界点とでも言ったらいいのでしょうか、それがもの凄く深く設定されているということです。


「この辺が適当か・・・・」といった妥協を含むところが殆ど感じられないのです。作品の表現の飽和点が、無限遠に設定されているかのような観さえあるのです。そこが凄いです。



よく「作品の密度」といいますが、それが意味するものは、作り手が描き込む時間的空間的な厚みを指すと思います。これは人間に限定して言えば表現の本質が、あくまでも人為による加工と考える指向性があり、その典型が『装飾的なるもの』へ繋がると考えられます。


表現を支えるもう一方の極には、この制作姿勢と真逆なベクトルをもつ「侘び寂び」そして、ミニマルがあります。人為を極力抑制して、表現を支える指示体(キャンバスや布など)も表現の一部と解釈し、人為と素材を等価のものとする表現方法です。
 
この手法は、極めて観念的でもあるので、その意味で人間的でもあります。菖蒲学園の作り手の方々には、こういった観念的な作品はありませんでした。恐らく学園の指導者の方針が、こちらの極にはないのだと思います。また、描き込むという姿勢が強いことから、コンセプチュアルアートやミニマルアート的な表現から離れているということも重要です。

でも以前、ミニマル的な表現をこの施設の作り手の方と同じハンディーをもった方が表現しているのに感動した覚えがあります。それは大きな画用紙に、,確か数字だったか平仮名だったかを、鉛筆で描いては消しゴムで消し、描いては消しを延々と繰り返すという作品でした。素晴らしい出来でした。もの凄くミニマル的で概念的な作品でしたが、消し痕が重層的で密度高く分厚く描き込まれている傑作でした。
 


































制作・・・・・・菖蒲学園
布を使った菖蒲学園の方々の作品は、まるでブラックホールのように密度が高いのに驚かされます。そして、人間、やろうと思えばここまで徹底して描き込むことが可能なんだと勇気を貰えます。本来表現とは経済原理から離れたところにあるもので、たまたま僕らが資本主義社会に生きているから・・・・原材料+仕事の質(≒付加価値)+(作業時間)×(時間給)=価格・・・といった等式ではじき出される価値のあり方に慣れてしまっていますが、この尺度を超えているところに「もの」そして「表現」の本来の価値があることを菖蒲学園で作られる作品は暗示しています。



今回、この施設を案内紹介して下さったのは、実はこの施設の理事長でもある white gallery オーナー三坂さんでした。そして丁度、初日に九州新幹線を使って3時間もかけて長崎からお出で下さったMさんも、以前からこの施設に興味があったということで、三坂さんの案内にとても喜ばれている様子でした。


実はMさんは、ネットでSAVOIR VIVREのon line shop で僕の作品をお買い上げ下さった方でした。まさか同じ九州にお住まいとはいえ長崎からわざわざ鹿児島までお出で頂けるとは思ってもみなかったので、DMはもちろんお出ししていませんでした。にもかかわらずHPをご覧頂き九州新幹線を使ってお出掛け下さったことは驚きとともに深く感謝する次第です。菖蒲学園にご一緒出来たのは幸運でした。



















































































クリストファーM.ガストン作
 
white gallery で求めたカップ(茶碗)です。色が気に入って決めました。スペインの作家だそうです。やはり日本茶よりコーヒーの方が似合うかも知れません。。



来年の年賀状を作成しながら更新してます。
 

24年前の息子6才当時の年賀原板
 
暮れも押し迫ってくると、やはり何かと忙しく、年賀状作りを今日30日にようやく手を付けられる状況です。

24年前の息子6才当時の年賀原板を使って恒例の年賀状作りです。


さてどう料理するか、自分でも楽しみです。
 
 
昨晩は、リハビリのウォーキングをしたら睡魔が来たところで寝ました。今朝は7時に起床してシコシコ年賀作りです。一応↑ここまで来ました。

10年前に買ったタブレットは、vista に対応していないのでネットでドライバーをダウンロード。10年間使い込んで、今ではマウスの方を使うスキルが上がっていて結局、マウスで作業してます;;


photoshop キャンバス上の色彩とは大分違って見えます。もう少し鮮やかなはずなのですが・・・・。

今日は、朝10時からなでしこ japan のプレイバックが一日中放映されているので、何とか間に合わせたいのですが、HP更新と年賀となでしこ japan を交互に観ながらの聖徳太子のような一日になりそうです。
 
こんなのも考えています。すべて同時進行です。。
ここまできましたが。。
 
そして、ここまで。。
 













↑ どちらにしようか、迷ってます。。

ほんとお絵かきは楽しくて、なでしこ japan イギリス戦、殆どパスです。
 

最終版
結局 ↑↑に決定。現在印刷中です。今年中に郵便局の本局に直接もって行きたかったのですがダメでした。なので
皆さんのところへは、3日に着けばいい方かな。。と言った流れです。



モニターで見るのと、実際印刷されたものではまるで出来が違うのでお楽しみに!


Happy New Year  は、少し色調の彩度と明度を落した方が、龍の絵柄が引き立つのでモニターでは、ちょっと惚けた感じですが印刷後の出来映えはなかなかです。
 

今回ボツになった賀状です。。
菖蒲学園で制作されたものたちについてもう少し触れたかったのですが、ついに大晦日になっていまい、この後はまた別の機会に譲ることにします。そして、鹿児島で white gallery の三坂オーナーに連れられて紹介されたところがもう一箇所ありました。それは、徳永美代子さんという現代刺し子作家の個展でした。

鹿児島の市内からは大分離れた山の中~かで、ご家族で陶芸や刺し子のお仕事をなさっている方達の館を星が零れてきそうな真っ暗闇の中訪ねました。山の中なので余裕のある空間に徳永さんの刺し子の新作は飾られていました。それはそれは見事な出来映えで息を吞む思いで作品に魅入ってしまいました。


そして、ぱっと見た瞬間に、それらの新作にある既視感があったのです。    そう、その作品の制作姿勢が菖蒲学園の方々のものを彷彿とさせるものだったのです。あとからwhite gallery のオーナーに聞いたところ、徳永さんも彼ら彼女の作品に触発されて、その作品が大きく変ったということでした。さもありなん。とてもものの善し悪しに素直な方だな~と清々しい印象とある種の潔さを感じました。というのも、菖蒲学園の方々は、ある種の偏見に満ちた見られ方をされるのが常であるからです。


それゆえ彼らの作るものは、ある種特異なパーソナリティーの持ち主が、特異な能力を、たまたまある指向性をもった指導者の下で方向付けされた故に表出したもので、それは作品とは呼べない・・・・・という意見もあろうかと思います。でも、僕が彼らの作品(あえて作品と呼びます)に深く心を動かされるのは、原始の風
縄文の風で熱く語ったように「人の表現の萌芽」というか、「表現の元始」を知ることで、垢にまみれたおびただしく山積した表現をリセットし、そこから新たな表現の萌芽を見ることが可能ではないだろうか・・・・という期待からです。



表現の元始・・・・それは、原始美術や幼児の絵画、そして、障害を持つが故に文化の洗礼をあまり受けずに済むことで辛うじて保持が可能な表現の領域です。新しい表現を生み出すには、常にこの領域に立ち返ることで表現の原点に立ち、そこから現在の有り様を確認する必要があります。菖蒲学園が生み出す作品には、そのヒントが隠されています。そこから何を読み取るかは、人それぞれですが、僕自身は2011年の出来事の中で特筆すべきこととして上げたいと思います。
  
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徳永美代子さんDM












徳永家の囲炉裏を囲んで
 さて、工芸の危機と経済原理に触れたかったところですが年が明けてしまったので次の機会に回したいと思います。

2011年、http://urushi-art.net をご覧頂きありがとうございました。2012年が皆様にとって幸多い年でありますようお祈りしております。


では、また。  良いお年を!